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第六十七回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(24)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑩

第六十七回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(24)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑩

 

〇『植物祭』の史的意義の補足(p114)

 モダニズムとプロレタリアといった区分を抜きにして、昭和のはじめに登場した新興短歌は、大正期短歌の否定をモチーフにして生まれた。否定意志が滅亡論の方に向けば釈迢空「歌の円寂する時」となり、実践的創造に向けば「新興短歌」になる。要するに、昭和短歌は滅亡論と新興短歌から始まった。                       

 二つが共通して持っていたのは、大正期にアララギ的な成熟を遂げた近代短歌の、その成立基盤を疑う意志である。

 昭和初期の新人たちは、否応なしにこの曲り角に立たされていたわけである。曲り角を作品がどのような形で意識していたか、それをこの時期の歌集、とりわけ新人歌集は問われることとなる。

 こうした時代の要請を『植物祭』がどんな形で受け止め、自己主張をしたのか。それを〈『私』の変位〉として位置付ける。

 

〈『私』の変位〉

  まず、『植物祭』の前に作歌された歌(歌集『春の日』)を引く。

 

  枯原のかなたに霞む遠山にこころ向ひゐてうたたさびしも

 

 「景」とそれに向かう「心」の照応が安定していて美しい歌である。対象は画然たる外部風景であり、作品の中の寂しさは紛れもなく作者自身の肉声であるという関係が、この歌の安定感を生み出している。

 しかし、佐美雄は、こうした安定感を「古典派の悪趣味」として否定し、作品中の『私』と作者の一元的な一致を意図的に攪乱して、『植物祭』を出した。

 「古典派の悪趣味」を否定した『植物祭』の奇妙な自己批評性は、「史」の問題としてはどんな意味を持つのだろうか。

 一言で言えば、それは、「『近代的な自我の詩』の否定」である。

 近代短歌は、新詩社の「浪漫」と根岸派の「写実」という構図のもとに語られることが多いがそれは表層的なレッテルにすぎない。両者を含めて近代短歌には大きな底流がある、それは、「自我の詩」である。それが、近代短歌を統合するキーワードである。

 「自我の詩」とは、作品中の「われ」は「作者であるその人」であるという強い確認が歌の特徴であり、「作品中のわれ=作者」という図式を歌に持ち込むことが和歌革新運動の狙いだった。そして、それが、近代短歌の基盤となったと佐佐木幸綱氏は『作歌の現場』で述べている。

 では、この近代短歌の基盤と佐美雄はどう関係させればいいのだろうか。

 その一つに、佐佐木氏は前川佐美雄の歌を「ポエジー短歌」として捉えている。「ポエジー短歌」とは「作者私の現実に引き回されない歌、不幸な作者私という文脈に頼らない歌」と述べ、佐美雄の短歌に近代的な図式とは異なる『私』の位相を認めている。

 近代的な「自我の詩」が成立するためには、外部世界と『私』の内部がはっきりと区別できる他者でなければならない。つまり、『私』は他と区別できる安定した存在でなければならない。

  しかし、それに対して、『植物祭』が繰り返して主張してきたことは、主体としての『私』の安定性は徹底的に揺さぶらねばならないのだよ、ということである。すなわち、近代的な『私』は攪乱されねばならない、主体としての『私』と客体としての『もの』という関係は攪乱され、『私』は『私』であるかどうか分からない不安定性を基調にし、だからこそ、『私』は他者になり、他者(蛇や壁)が『私』になるといった無秩序が生まれる、この、『私』を激しく揺さぶった故に生まれた『私(の無秩序性)』において、『植物祭』ははっきりと近代短歌と訣別し、また、特異な喩表現を創出したのである。

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 【参考・引用文献】 
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)

第六十六回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(23)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑨

第六十六回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(23)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑨

〈『植物祭』の史的意義 〉

〇外的な枠組みが本質的な問題ではない大切なのは“方法”である(という主張)。 p105

〇プロレタリア短歌からもモダニズム短歌からも離れる、曲がり角時代の歌集。p114

  

 プロレタリア短歌やモダニズム短歌は、大正期短歌の否定をモチーフに始まっている。佐美雄はどちらからも影響をうけていた時期があったが、『植物祭』においては、それらを排除する姿勢を見せている。そして、昭和5年の6月、7月、『心の花』に「真の芸術的短歌とは何か」という文書を書いている(以下に要約)。

 “今日の短歌は余りにも同一方向からのみ眺められてゐる。十人十色といふ言葉があるが、百人一色千人一色の有様だ。この有様が、歌人ら自らをして、非常に短歌を嫌悪せしめてゐるのだ“

 その状態から脱出するためには、短歌の革命を志すためには、何が必要なのだろうか。

   “それは決して、短歌定型を変革する事でもなければ、口語と文語との問題でも無ければ、短歌に思想(意味)を持たせることでもなければ、単に新しい素材を持って来るといふことだけでもない。これらは或る場合に於いては一つの要素とはなりうるだろうが、それらによつて革新は成就され得ない”

 “(革新の肝心事は)それはただの方法、方法のみによつてである”

 “その方法とは、「新しい角度からみる」ただそれだけのことである。「新しい角度から見る」には「新しい精神(エスプリ)」が必要である。ここで、コクトウの言を引かう。「真の現実の主義は、僕らが毎日触れてゐるために最早や機械的にしか見なくなつてゐる事物を、それを始めて見るかのやうな、新しい角度を以て示すことにある」これはつまり、そのあらはれて来るところのものは別段特別な材料ではない、カメラのアングルの置き方が非常に新しい角度であるために、そのあらはれたものは全くこの世にはじめて見るかの如き新鮮さを覚える”

 “革新のための方法とは「新しい角度から見る」つまり、「新しいカメラアングル」を獲得することである”

 

 そして、佐美雄に関して本文ではこのような評が載せられている。

比喩に禁欲的な大正期短歌ののちにあらわれた、ダダイズムシュールレアリスムを摂取した歌人は数え切れないほどいたが、摂取し、喩表現(能動的比喩)としての歌の力に還元できたのは前川佐美雄一人である(永田和宏『解析短歌論』)。
  

【参考・引用文献】 
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)

第六十五回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(22)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑧

第六十五回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(22)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑧
〇表現の特質
  ・自己の客体化
  ・自他の二重性
  ・自他の交換
  ・既成への否定意志
今回は、上記の「既成への否定意志」についてを要約します。

〈表現の特質ー既成への否定意志〉                   
膳の上のこのいかめしき金頭魚(かながしら)憎くしなりて目玉ほりやる

なにゆゑに室(へや)は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まはす

四角なる室のすみずみの暗がりを恐るるやまひまるき室をつくれ

丸き家三角の家などの入りまじるむちやくちやの世が今に来るべし

晴着きて夜ふけの街に出でてをる我のさびしさは誰も知るまじ                 
                       (『植物祭』)
 一首目、「憎くしなりて」はただ単純に金頭魚に触発されると考えると、それはいささか過剰な反応である。ここでは、先だって〈私〉の方にも何か強い鬱積があり、それが金頭魚に触発されて「目玉ほりやる」という行為となって出た、と受けとる方が自然のように思われる。二首目、三首目、四首目は、現実に対する違和感が歌われているわけだが、それは、直接的な原因がある感情ではない。世の中に対する何か抑え難い、解消しがたいむしゃくしゃが先にあって、四角い家という規範に向かって吐き出されたわけである。五首目は、二首目の「きちがひのやうに室を見まはす」と同じく、誇張され演技臭い、実際の行為ではない、ナンセンスな歌である。こうした〈私〉は、既成への違和感や異質感がまとわりついている。既成価値からの脱落という立位置で、場面が設定されている。これが、佐美雄の世界において重要な点である。すなわち、〈私〉は、折々に別のものに変身するが、その変身の系列は〈変質者〉〈白痴〉〈鬼〉という系列であり、それが示すものは、世間への、世間の尺度への否定意志なのである。                 
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次回は、

〈『植物祭』の史的意義 〉
〇外的な枠組みが本質的な問題ではない大切なのは“方法”である(という主張)。
                                    p105
〇プロレタリア短歌からもモダニズム短歌からも離れる、曲がり角時代の歌集。
                                    p114

を要約します。

【参考・引用文献】 
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)

第六十四回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(21)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑦

第六十四回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(21)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑦

〇表現の特質
  ・自己の客体化
  ・自他の二重性
  ・自他の交換
  ・既成への否定意志
今回は、上記の「自他の交換」についてを要約します。

〈表現の特質ー自他の交換〉                   
窓の無いいんきな室で僕はいま自分の足のうらかへし見る

生(なま)じろいわが足のうらを見てゐるとあの蛇のやうに意地悪くなる

陰性なあの蛇はきつと人間のあしのうらのやうに冷(つめ)たきならむ

壁にゐる蛇に足のうらを見られたりこのこころもちは死ぬ思ひする

窓の無いいんきな室にあきはてて四壁(しへき)の裾を這ひまはるなり                                                

雨のふるいんきな日なり壁にあるにんげんの指紋のいかにかなしき

                       (『植物祭』「蹠」)
 一首目、まず、陰気で窓のない奇妙な部屋で足うらを返して眺めている〈私〉が提示されている。「窓の無いいんきな室で」という場面設定は、非現実的なものであり、かつ、心理的なものである、という断りの役割を果たしている。二首目で、足のうらの生じろさを見ていると、いかにもひよわな駄目な人間の典型のように思えて、意地悪い蛇の(意地悪い)加虐的な気持ちになってくるという心理的な展開がある。三首目は、皮膚感覚として蛇への嫌悪を述べているが、この時点で、〈蛇〉=〈私〉のとなり〈蛇〉への嫌悪はすなわち、〈私〉への嫌悪となる。四首目では、二首目で「蛇のやうに」と比喩として登場した蛇が、もう、この部屋であたかも実在するものとして、〈私〉の足のうらを見つめている。五首目、〈私〉は〈蛇〉に感染し、いつのまにか蛇そのものとなり壁を這いまわる。そして、六首目で、現実に引き戻され、結びに向かう。

 「蹠」の一連には、色々な自他交換、自他の同質化が起こっているが、肝心な点は、〈私〉〈蛇〉〈足のうら〉〈壁〉も、それぞれの固有性から自由になって、任意に入れ替え可能になっている点である。るつぼの中で自他のちがいが溶解していく、その様相である。それを、「窓の無いいんきな室で」という比喩表現が、雨に閉ざされた暗い窒息感を表し、詩のリアリティに効果的な支えとなっている。

 

棕梠のかげで少女が蝶蝶をつまむからわれの頭が何んてのぼせる           カンガルの大好きな少女が今日も来てカンガルは如何如何かと聞く          覗いてゐると掌はだんだんに大きくなり魔もののやうに顏襲ひくる
野の草がみな目玉もちて見るゆゑにとても独で此処にをられぬ           逆さまにつるされた春の樹木らのいかに美しくわれを死なする
                       (『植物祭』) 
 一首目、〈私〉はなぜのぼせるのであろうか。この歌は、「蝶々をつかまえるといった生き物の自由を奪う行為を少女がしているのは、けしからん行為(だからのぼせた)」ともとれるが、一連に、「カンガルの・・・」の歌があることから、少女弾劾の歌と読むことはできない。とすると、考えられるのは、つままれた蝶々に感染して自分がおかしくなったからである。つまり、〈私〉=(〈少女〉や〈少女の行為〉ではなく)〈蝶蝶〉だからだ。

 三首目は、〈掌〉は〈私〉の部分として〈私〉の意のままに動かすことが出来る、その関係性から解き放たれて、自分を襲う、別の存在になっている点に注目したい。

 四首目は、「見る」という行為の関係性の逆転。〈もの〉が主体的な意図をもって〈私(=人間)〉を追いつめている図式が成立している。

 五首目における、〈樹木ら〉はなぜ〈私〉を死なせることが可能なのだろうか。それは、〈樹木ら〉が逆さまに吊るされて死なされているからである。あとは、〈樹木ら〉と〈私〉はいかようにも交換可能な自他であるから、〈樹木ら〉に〈私〉が入れ変わる時に〈私〉は死ぬ、死んでしまう、死んでいる、という意識が、この作品を作らせている。

 

 ここまでの、《自己の客体化》《自他の二重性》《自他の交換》といった形で抽出した特徴は、それぞれ別の現象ではなく、自己批評の意識が自分を客観的に見る見方を生み出し、自己客体化が進めば、他者や事物と替わる純客体のレベルまでゆくことができるわけである。それらが、どこから導き出されるのかは、第六十回の略歴に述べられた、
 〇佐美雄的世界の特徴 p77
-変質者、白痴、鬼ー 佐美雄の変身系列は常に、世間的な尺度への反措定、強い反措定である。                                     に求められる。                                             
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次回は、表現の特質における「既成への否定意志」を要約します。

【参考・引用文献】 
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)

第六十三回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(20)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑥

第六十三回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(20)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑥

〇表現の特質
  ・自己の客体化
  ・自他の二重性
  ・自他の交換
  ・既成への否定意志
今回は、上記の「自他の二重性」についてを要約します。

〈表現の特質ー自他の二重性〉                   
深夜(しんや)ふと目覚めてみたる鏡の底にまつさをな蛇が身をうねりをる
                      (『植物祭』「忘却せよ」)

 この引用歌をどう読めばよいか。深夜目覚めると鏡に自分の寝姿が映っていて、それは蛇のように身をうねらした姿だった、という受け取り方が自然である。「蛇」を実物と捉えるのは不自然である。また、深夜=暗闇であるから、蛇は(目に見えた)「視覚」的ではなく「感覚」的把握として詠われたと考えられる。つまり、どう読むにせよ心象的な身体感の歌であり、〈私の身体〉は〈私〉によって、〈私ならざる異物〉=〈蛇〉として見つめられている。

 

夜の街でなんの見知らぬ酔ひどれを介抱してゐる我にはわからぬ

寸分もわれとかはらぬ人間がこの世にをらばわれいかにせむ

僕とかれとは何んと親しくありながら互に知らぬかなしさを知る

夜の街でいつか介抱されてゐたあのゑひどれは我かも知れぬ

                      (『植物祭』「人間」) 

 一首目の「我にはわからぬ」は介抱する理由が自分でも分からないが心に引っかかるものがあることを示唆している。この引っかかりがが二首目以下への布石となる。二首目は、「われいかにせむ」と仮定の問いにしながらも、この〈酔ひどれ〉を「寸分もわれとかはらぬ人間」=〈私〉である可能性を示唆している。三首目になると、傍から見て、〈酔ひどれ〉を介抱している〈私〉と〈私〉に介抱されている〈酔ひどれ〉は、親しそうに見えるが当人同士はその関係がよく分からない奇妙さを詠っている。けれども、四首目で、ふり返って考えてみるに、あの〈酔ひどれ〉はやはり〈私〉自分ではなかったかと推論し、オチにしている。

 

 蛇の歌では、〈私〉が〈蛇〉に見立てられている客体化が存在しているが、酔ひどれの歌では、〈私〉と〈酔ひどれ〉は介抱し介抱される存在でありながら次第にその自他がもつれて、自他分離がうまくできない二重の存在であり、それは客体化といったものではなく、むしろ、分裂した二つの自己、その二つの自己が任意に入れ替わる形となっている。これを、《自他の二重性》とする。                                            
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次回は、表現の特質における「自他の交換」を要約します。

【参考・引用文献】 
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)

第六十二回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(19)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑤

第六十二回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(19)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑤

 

〇表現の特質
  ・自己の客体化
  ・自他の二重性
  ・自他の交換
  ・既成への否定意志

 今回は、上記の「自己の客体化」についてを要約します。

 

〈表現の特質ー自己の客体化〉                   

ほそぼそと漬菜(つけな)嚙(か)みゐるひとり身のわがさびしさは気の毒ならむ

                      (『植物祭』「孤独の研究」)

おのが歯に胡瓜嚙む音すこやかにおのれ聞きつつひとり昼餉す

                      ( 野村和義 )

 例えば、この二首は、独りの食事が歌われていると読めば、誰にでも体験のある孤独なワンシーンであるが、前者(前川佐美雄)は、それだけではない自己批評の目を感じさせ、後者(野村和義)は、あるがままの受容といったものである。この二首の違いは、前者が「気の毒ならむ」という別の観点からの目によって見られている点が異なる。「気の毒ならむ」というのは、わかりやすく場面を設定すると、天井の隅にテレビカメラが設置され、「漬菜を嚙む私の姿をあのカメラから見たら気の毒な姿に見えるのだろうな」という屈折表現、自分の寂しさを他人の目で眺め直す表現の構造に、佐美雄の意図がある。 

 

  街をあるきふいとわびしくなりし顏そのままかへりきて鏡にうつす

  不快さうでひとと話(はなし)もせぬときのあのわが顏がみたくてならぬ

  鏡のそこに罅(ひび)が入るほど鏡にむかひこのわが顏よ笑はしてみたし

                      (『植物祭』「鏡」

 この一連十一首は〈鏡〉という道具を設定することによって、自分を客観視して批評するというモチーフを露出した作品群といえる。一首目は、わびしくなったときのその顏がみてみたいという心動きが肝なのではなく、わびしくなった顏を客観視したい、別の目で見たいということが肝心事である。鏡はその別の目を与えてくれる道具である。二首目は、〈不快そうな表情をしている私〉、その〈私〉を見たい。構図として、〈不快そうな私〉をもう一人別の〈私〉が見たがっている。三首目は、鏡をはさんで文字通り〈私〉と〈もう一人の私〉が向き合っている図である。しかも、単に鏡に自分が映っていることを歌っているのではない(鏡に映っている自分を歌っているのではない)、こちら側の〈私〉が鏡にひびが入るほど強く見つめれば、その渾身ぶりにほだされて笑い出す存在である、もう一人の私、もう一人の自分の存在がある。

 

 こうした作品における、自分を見るもう一人の別の自分、別の自分の目、といったものを《自己の客体化》と整理しておく。

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次回は、表現の特質における「自他の二重性」を要約します。

 

【参考・引用文献】 
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)

第六十一回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(18)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ④

第六十一回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(18)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ④


1、誕生から『植物祭』までー④

〈『植物祭』巻頭歌から読み取れる特徴 〉 

・表現の斬新さを求める姿勢

巻頭歌

  かなしみを締(し)めあげることに人間のちからを尽(つく)して夜(よる)もねむれず 

 眠れないのはかなしいからではなく、かなしみを締めあげることに懸命になっているからだ。〈かなしみを→こらえる〉といった文脈で普通はあらわされるものを、〈かなしみを→締めあげる〉と予想外のつなげ方で誇張している。                      

 ここに表現上の斬新さを求める姿勢がはっきりとあらわれている。

 

・作為的な設定

九首目

  晴着(はれぎ)きて夜ふけの街に出でてをる我のさびしさは誰も知るまじ

晴着を着て人気のない夜ふけの街にいるという設定は演技性の強いナンセンスである。ここから、読者は作者の個的体験としての夜ふけの外出や、作者の孤独感の特殊な表現の形を読みとることは、不可能ではないがかなり無理がある。むしろ、作為的な場面設定としての外出を自然に読み手が想定することが、この歌の狙いだと考えていい。

 表現の問題に焦点をあて、その作為的な設定を強調しておく。 

 

・奇妙な自己客体化
十一首目

  床(とこ)の間(ま)に祭られてあるわが首をうつつならねば泣いて見てゐし

 自分の首が床の間に祭られているあって、その首を自分が見ている構図である。見ている私は、首の無い私か、それとももう一人別の私なのか、どちらにも考えることができる。その想定は自由である。〈首だけの私〉←〈それを見て泣いている私〉←〈自分の首を見て泣いている私を見つめる作者としての私〉。視線はこのように注がれていて、自己を客観視する奇妙な視点が提出されている。

 この自己客体化がこの歌の大きな特徴だと言える。

 

*『春の日』の〈景〉と〈心〉の整序された照応とくらべると、『植物祭』の一連は全く異質な世界だといっていい。この異質ぶりに、新興短歌昂揚期における佐美雄の心意気がよくあらわれている。

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次回は概略に記載されている、表現の特質(自己の客体化)ついてを要約します。

【参考・引用文献】 
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)