第二回 金子薫園 『かたわれの月』
金子薫園 歌集『かたわれの月』より十首
〈選歌十首〉
桃のはな君に似るとはいひかねてただうつくしと愛でるやみしか
なにものか胸に入りけむ年ごろの懊悩(なやみ)わするるふゆの夜の月
同じ世に生れあひたる嬉しさは我も御弟子(みでし)のつらに入りぬる
花のごとき歌秘めませる御袖よりはじめて春の風はふくらむ
(春の初めなりければ)
ふた坪に足らざる庭も折ふしに手むけむほどの花はさくべし
山に入らば心あさしと笑はれむとにもかくにも苦しかりけり
山ふかき谷の清水におりたちてあを葉うへのひるの月見る
わが胸のまよひの雲をいかにせむいなれざりけり君が家(や)の門(かど)
ほうりゆく火(ほ)かげながめて長き夜を思ひでおほき梧(きり)の葉の雨
君が名のきみにふさはぬうらみかな清きはいづれ白百合の花
〈感想〉
金子薫園を最初に拝読した時に、薄らぼんやりとした印象を受けた。薫園はどうして、現代短歌全集に載っているのだろうか、とも思う程、ぼんやりとした読後感は続いた。
良さの分からないまま、むしろ、分からないので、選歌十首をした。
三日過ぎ、五日過ぎ、一週間が経つ前に、と選歌十首を手掛かりに、読み返してみると、薫園の「懊悩」漂う一つの空気感が一貫していることに、惹き込まれた。いつも何かを思い出し、いつも何かに迷い、いつも何かに悩んでいる。一人の男の女々しい感情を、きれいに歌い上げている。これなら、共感を呼ぶはずである。
はなから、分かりません、ではなく、良いものは必ず立ち上がってくるのだと、それが分からないのは、自分の力量にも理由があるのだと、しみじみ思った。
落合直文の序文が、良い。序文は、最初に読んだ時から、良いと思った。本当は、この序文を引き合いに出し、なぜ金子薫園を落合直文がそこまで賛ずるのか分からない、との方向で、レポートをするつもりであったが、その必要は、無いようである。