Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

第二十四回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(7)

第七回 前川佐美雄の人物像(2017.5.22)
(1) 略歴(前編)
(2) 略歴(後編)・(次回掲載)
(3) 歌、短歌史にみる人物像(次回掲載)

(1)略歴(前編)
 明治36年(1903)、2月に奈良県に生まれる。代々の地主一家で、経済的に豊かな家庭環境であった。
8歳で水彩画を描き、11歳で初めて短歌を作った。地元の農林学校へ進学するも、絵画と文学に入れ込む。歌の最初の先輩は、辰巳利文であった。
 大正10年(1921)4月号の『心の花』(*1)に、佐美雄の歌が掲載される。18歳時のことである。
大正11年(1922)に上京。東洋大学東洋文学科に進学するが、当時は、絵画に執着していたようである。同年、『心の花』6月号の会員消息欄には、「奈良県なる前川佐美雄氏は絵画研究の為め上京せらる」と紹介されている。
 また、大正10年の(1921)の11月に、祖父の左重良が他界。祖父は、佐美雄を、地主と農林業の跡継ぎとして、本家の家長になるよう譲らなかった。母親の久菊が、祖父と佐美雄の間を取り持ち、上京を引き留めていた。祖父左重郎の死は、佐美雄に自由をもたらしたが、同時に、後の前川家の没落につながる。
 上京翌月の5月から、曙会(*2)という竹柏会の研究会に参加するようになる。曙会は、佐々木信綱のもとに集まってくる二十代の面々が幸綱を引っ張り出す形で成り立っていた。佐美雄の入会時にはすでに発足から13年が経過し、第二期的時代に入っていた。ここで、佐美雄は鍛錬され、「心の花」の有望新人に駆け上がったといえる。
大正14年(1925)3月、東洋大学の卒業と同時に、帰郷。
翌年、大正15年(1925)9月に、再上京。竹柏会の編集、選歌に加わる。この頃より、「心の花」の中枢部で仕事を開始し、歌壇的な交流も始める。歌人として積極的な行動を開始している。同時に、絵画の二科展で、古賀春江の絵に感銘を受け、のちに、『植物祭』(1930)の装幀を古賀に引き受けてもらうことになる。
 再上京の生活は、実現困難な状態にあった。実家は没落し、経済的な窮地に追い込まれていた。佐美雄は、その再建を担う跡継ぎの立場を振り切り、上京していた。
昭和2年(1927)、前川佐美雄と土屋文明の模倣論争。
昭和3年(1928)9月、新興歌人連盟の結成。10月に第一回大会。
昭和4年(1929)新興歌人連盟の分裂や、会員の退会、それに対する形で、創刊と終刊。佐美雄は5月刊行の『プロレタリア短歌集』を機に、プロレタリア短歌同盟や機関誌に参加するも、12月に脱退。同年齢の高橋新吉中原中也小林秀雄との交流が始まる。
昭和5年(1930)7月、「心の花叢書」として『植物祭』が刊行される。

【注釈】
(*1)当時、結社「心の花」は、規模は全国的に成長していたが、木下利玄や新井洸が病気の為、編集会議を欠席しており、中核となる編集スタッフの若返りと、誌面の整備と変化を求められていた。

(*2)明治41年(1966)は、『明星』廃刊の年でもある。短歌史的には明星的浪漫主義が衰えて、自然主義が勢いを強めている時期である。明治30年代後半から有力歌人たちが、明星的浪漫主義とは別の運動をさまざまに模索し始めていた。明治39年(1964)に、石榑千亦、川田順、木下利玄、片山広子たち12名の合同歌集『あけぼの』を竹柏会は、世に問い、この勢いが曙会に結びついた。

【メモ・考察】
・多作
・相聞歌が少ない。
・生まれ育った風土
・代々林業の家で育ったためか、動物よりも植物を優先して詠う傾向がある。
・少年時代は、和辻哲郎の『古寺巡礼』を片手に、寺巡りをしていた。
・絵画の影響から、実家の敷地の一部に向日葵ばかりを植え、祖父の反感をかう。のちに、向日葵の歌を多数詠っている。
・辰巳利文は、佐美雄の農林学校の教師であった。「心の花」の大和支部に所属。佐美雄の歌の上達に、内心は焦りがあった。
・佐美雄は、川田順をライバル視し、佐々木信綱を師としていた。
・何かに悩むと、姿見で自分を凝視する癖があった。少年時代からその癖があり、母親久菊は心配していた。

【参考・引用文献】 
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)
『歌の鬼・前川佐美雄』小高根二郎 沖積舎(1987)
『絢爛たる翼』鳴上善治 沖積舎(1996)

 

トピック: 第六回 研究発表(略歴・前編)
なかなかいいですね
レプリカの鯨 | 2017年06月02日
新庄図書館にあたっているのは大変結構です。できるだけナマに近いところで、資料にあたるのは大切です。
日高堯子が前登志夫を論じたところで、前の
夕闇にまぎれて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ
と、前に影響を与えた歌人として佐美雄を取り上げ
野にかへり野には爬虫類をやしなふはつひに復讐にそなえむがため
を並べて引いて、二人の帰郷、故郷のに対する思いの違いに触れていました。あまり参考にはならないと思いますが。
返信
Re:なかなかいいですね
関口 | 2017年06月02日
フィールドワークの大切さを思い出し、また、思い直し致しました。「故郷」という感覚がない(故郷がない)私には、ピンと来なかった点を、ご指導頂き、有り難うございます。今後の歌の解釈に、その視点を活かして参ります。補足説明も、この研究上で成していきたく思っております。
返信
レプリカの鯨様へ 質問と回答のまとめです。
関口 | 2017年06月02日
〈質問内容〉
① 性格は、生来的なものなのか
② 親との関係
③ 生家の没落との関係
④ 旧家が没落し、その長男でいるということが、佐美雄にどのような影響を与えたのか
⑤ その前提として、没落した理由はなんなのか


〈回答〉
① 神経質な性格は、先天的なものであったと考えられます。
 子供にてありしころより夜なか起き鏡のなかを見にゆきにけり 『植物祭』 
この歌から、そう読み取りました。
他にも、当時「心の花」の主力メンバーである西村陽吉は、『心の花』特集号(昭和5年10月号・『植物祭』の批評特集)で、
  「まづ第一に感ずることは、この作者はすこし変だぞといふ感じである。変だといふことは精神的に変質者ではないかといふ感じである。この作者が、神経質であるといふことはもう被ひがたき事実だ。」
と寄稿しています。
本人も周りの人も、何かが他人と異なる、そのことで悩んでいることが、長期間
持続しているという点で、それは生来の気質を含んでいる性格だと考えられました。

② 母・久菊は、女学校で山川登美子と同級生だったことを誇りにしており、佐美雄の歌壇での活躍には理解を示しています。

③ 生家の没落との関係ですが、大正15年(1926)に、親族が小豆相場に手を出して失敗したことが原因で没落しています。連帯保証人の前川本家にもそれが及ぶ。
 それでも、その年の9月に、前川佐美雄は再上京しています。没落が、佐美雄に与えた影響は、自身の歌集『植物祭』に掲載する歌を、「大正15年9月以前の歌を割愛する」と決断したことだと考えられます。つまり、再上京するまで大和(奈良)で創作した自身の歌を自分で否定し、歌集を出したことです。                                                

④ *不明:新庄図書館に問い合わせ中です。

⑤ 前川佐美雄生家の没落の理由、原因と考えられる出来事は、下記になります。
大正10年(1921)12月、隣家の出火の延焼で、家屋を半焼する不幸に見舞われる。
大正15年(1926)、親族四家が相次いで没落し、その借財の連帯保証人に佐美雄の父がなっていたことで家運が傾き、母の実家(奈良県)に移り住む。
昭和8年(1933)、父の急逝により奈良に帰郷(佐美雄・30歳)。
昭和20年(1945)、敗戦により農地解放(1947年)で小作地をみな失う。


【参考・引用文献】
木村草弥HP http://poetsohya.blog81.fc2.com/
http://poetsohya.blog81.fc2.com/blog-entry-2138.html?sp
 (*上記の内容の一部は、新庄図書館にて公開されています)

*2017年6月2日現在、新庄図書館に、前川佐美雄の実家の没落した理由や、幼少期のエピソード、親子関係に関する資料があるかどうか、問い合わせ中です。二週間以内にお返事を頂けることになっています。
返信
承前
レプリカの鯨 | 2017年05月29日
今回の「佐美雄の思想・精神」が、わたしの質問に対する答えになっていますか、と筆者に訊かれましたが、なっていません。
「動植物界普遍の慣行では律しえない異常で我儘な本性」と、「相手が秀才を気取るなら、自分は天才になってみせるという、上京時の負けじ魂(はどこへいったのか)」に苦悩していた。⇒とありますが、「」内の出典を明らかにしてください。自己認識なのでしょうか。まあ、文体からすると自己認識なんでしょうね。問題は、評者がそれをそのまま受け入れるのか、ということと、私の質問は、そのような性格は、生来的なものなのか、親との関係、とりわけ生家の没落との関係を、教えていただきたいということです。旧家が没落し、その長男でいるということが、佐美雄にどのような影響を与えたのか。その前提として、没落した理由はなんなのか、ということです。たまたま阿木津さんの編集した石田比呂志を読んでいたら、かれも、規模は小さいが没落した家の息子で、どうもそれが彼の性格に影響しているようです。石田比呂志はその辺はあからさまですね。
返信
お詫びです。レプリカの鯨様 関口拝 Re:承前
関口 | 2017年05月29日

レプリカの鯨様

この度の、私の回答が、レプリカの鯨様の質問のお答えになっていない点、また、それを、若干、気付いておりながら、受け流そうとしてしまった行いについて、お詫び申し上げます。

「動植物界普遍の慣行では律しえない異常で我儘な本性」
「相手が秀才を気取るなら、自分は天才になってみせるという、上京時の負けじ魂(はどこへいったのか)」
の出典は、参考引用文献に書かれたままを、引用致しました。

一週間の間に、レプリカの鯨様より頂いたご質問の回答を、追究します。

一つだけ、私が、なぜ直球の答えを回避したのか、と申しますと、今の私には歌の解釈の力が十分なく、余りに多くの「情報(背景)」を一気に詰め込んでしまうと、私自身が、只々、良いな面白いな、他の歌にないものがあるなと思いながら、前川佐美雄の歌を楽しむことが、出来なくなってしまう。それが、私には辛く感じたので、しっかりとしたお答えを避けてしまいました。

しかし、今は、情報が入ろうが入るまいが、その様なことで、前川佐美雄の歌は揺るがないのではないか。という、新しい期待があります。

今回は、私の姿勢に問題、失礼があったと思っております。本当に、申し訳ございません。

関口拝


返信
佐美雄の思想・精神
関口 | 2017年05月27日
佐美雄は、大正11年(1922)4月に、東洋大学に入学し、上京。そして、大正14年(1925)に大学を卒業すると、父母との堅い約束により帰郷した。そして、辰巳利文の紹介(*1)と母親の説得により、その夏から、大阪八尾の小学校の代用教員となった。しかし、夏休み頃より、眠れなくなり精神的に不安定な状態になり、初秋に辞表を出し、辞職。
 佐美雄の心中は、「動植物界普遍の慣行では律しえない異常で我儘な本性」と、「相手が秀才を気取るなら、自分は天才になってみせるという、上京時の負けじ魂(はどこへいったのか)」に苦悩していた。この様子を、母久菊は見抜いており、深夜に佐美雄の部屋をそっと確認している。
 八尾小学校を退職してから、一ヵ月が経たないうちに、師と頼んだ新井洸(あらいあきら)が逝去(43歳)した。
訃報は、石榑茂より手紙で届いた。その手紙には、近況として、島木赤彦先生の斡旋により、岩波書店から『木下利玄全歌集』が出版されることとなり、目下、編纂中である。装丁は岸田劉生。とのことが書かれており、石榑茂をライバル視していた佐美雄は、「ここでぼさぼさしていたら、今に歌壇においけてぼりを食ってしまうぞ…」と忠告されたかのように捉えている。
 
   子供にてありしころより夜なか起き鏡のなかを見にゆきにけり 『植物祭』 

大正15年(1926)、前川佐美雄は、再上京する。その年の暮に、天皇崩御。大正時代が終わる。


注釈
(*1)斡旋者は持山を取引きした八尾の顔役である材木問屋の主人。そのことに、父母は大満足していた。

参考・引用文献
『歌の鬼・前川佐美雄』小高根二郎 沖積舎(1987)
返信
レプリカの鯨様
関口 | 2017年05月22日
早速の御示唆を頂き、本当に有り難うございます。専門的な回答は、追ってご報告したいと思いますが、私が一番疑問に思ったのは、佐美雄の父親の存在が、どの文献にも、あまり記述されていないことでした。

今週中には、再度、御指摘の点を見直し致します。
本当に、有り難うございます。
返信
感想
レプリカの鯨 | 2017年05月22日
略歴はよくまとまっているし、メモも次のステップの準備としていいものだと思います。ただ気になるのは、前川家の没落の原因。この当時の山村の地主の長子は家を継ぐことを義務・あるいは宿命のように考えていたわけで、佐美雄はそれをせず、没落する実家から離れていたわけです。これは彼の意識に重大な影響を与えたはずです。与えなかったら、それはそれで、佐美雄の思想・精神を考えるうえで重大なことです。で、前川家はなぜ没落したのか、それは、彼の作歌にどのような影を落としたのか、知りたいですね。