Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

第二十六回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(9)

第九回 研究発表(2017.9.18)
〈前川佐美雄生誕までの歌壇情勢〉

1、和歌から短歌へ 明治26年~明治33年
明治維新後、少なくとも明治10年(1877)までは、和歌から短歌への近代化は、歌の世界には浸透していかなかった。歌壇を形成していたのは、堂上派、鈴屋派、江戸派、桂園派であり、宮中との繋がりが強い桂園派が、歌壇の勢力を占めていた。その桂園派は、宮内省の御歌所が廃止される第二次世界大戦後まで、その詠風を保っていた。
しかし、伝統和歌の改良をはかろうとした改良論が唱えられるようになり、落合直文(1861~1903)によって、具体的に実践されるようになった。直文は、鮎貝槐園、与謝野鉄幹、服部躬治、尾上柴舟、金子薫園らを育成し、浅香社(明治26年)を結成した。直文は、新旧折衷の改良論を唱えたが、これに対して、鉄幹は先鋭的な革新論を主張した(『亡国の音』-「現代の非丈夫的和歌を罵る」)、日清戦争期(明治27年)の高揚した国民的感情を背景に、明治和歌の革新を目指したのである。
 明治31年になると、尾上柴舟、服部躬治らがいかづち会を結成。さらにそれに影響された落合直文の門下生が、若菜会、あけぼの会を結成。明治32年正岡子規根岸短歌会佐佐木信綱の竹柏会なども加わり、明治30年初頭の歌壇は群雄割拠の状態にあった。
 明治33年(1900)に鉄幹は、韻文雑誌「明星」を創刊。続いて、明治34年与謝野晶子の『みだれ髪』が刊行された。ここから、明治30年代の浪漫主義詩歌が推進されていく。
 一方で、明治31年正岡子規は「歌よみに与ふる書」を新聞に連載。明治32年根岸短歌会が開かれた。門下生は、伊藤佐千夫、長塚節らである。子規は、万葉集尊重の写実主義を提唱した。
 共に短歌革新運動の盟友であった鉄幹と子規は、「心の花」明治33年5月号で、選者について、正岡子規が鉄幹を指摘したことから、明治33年9月に、子規鉄幹不可並称論議(*)となる。結果として、表面的には子規が書面を鉄幹に送り和解したが、新詩社派対根岸派の際立った対立ができ、近代短歌史の源流を形成することになる。

(*)子規鉄幹不可並称論議
 もともと、正岡子規与謝野鉄幹の間には、和歌を改新するという共通の目的があり、明治26年ころから、交際があった。それと同時に、子規は、お互いにそろそろ、対立して論戦したらどうかと鉄幹に打診し、鉄幹も子規の力量を認めていた為、それを受け入れていた。
それにもかかわらず、正岡子規を崇拝する伊藤左千夫が、明治33年5月号の「心の花」に掲載された一文、「毎号の撰者に与謝野鉄幹正岡子規渡辺光風金子薫園なんどの新派若武者をして乙課題の方を分担なさしめ...」に腹を立て、「正岡師と他の両三氏と同列に見るさへあるに、若武者なんどと稍(やや)軽侮の言を弄せるにあらずや」と好戦的に抗議した。それを、鉄幹も子規も黙殺していたが、他の雑誌に、鉄幹をさらに卑しめる記事が載り、鉄幹は、明治33年9月、『明星』で「子規子に与ふ」を発表し、子規に釈明を求めた(*)。子規は9月に、誤解によるものであろう、として、「ご面会の機を得て申上度候」と書簡を鉄幹に送り、両者は和解した。
(*一文壇の礼儀作法を知つている君であるなら、左千夫や坂井に書かせずに、君自身の名で子規は文壇の破廉恥漢でないといふことを弁明したまへ。兜をぬいだの、後輩の鉄幹などといふことは、和歌革新の歴史上、君が健全なる頭脳である以上は、断じて僕にむかつて言はれた義理ではあるまいと思ふ。僕は君の美学を聴くの前に、まづ君が態度の真正の芸術家として、野心以外に立たんことを希望し、その文壇の破廉恥漢にあらざる自白のロ供を要求するのである。)


2、「スバル」と「アララギ」、その他の結社 明治34年明治42年
竹柏会:佐々木幸綱 「心の花」明治31年創刊 〈広く、深く、おのがじしに〉

新詩社:与謝野鉄幹 與謝野晶子 浪漫主義
「明星」明治33年創刊 ・・・・・・・のちの「スバル」明治42年創刊
   対
根岸短歌会正岡子規 万葉集尊重/写実主義
「馬酔木」明治36年創刊・・・・・・・のちの「アララギ明治41年創刊
 
車前草社:尾上柴舟 明治35年に『叙景詩』を金子薫園と共著し刊行。

     ・・・・・・ 反新詩社・反スバル

反新詩社・反「明星」を主張し、自然諷詠(自然主義)を特徴とする。のちに、若山牧水前田夕暮らが輩出され明治40年代の歌壇を席捲することとなる。

白菊会:金子薫園 明治36年創設 ・・・・反新詩社・反スバル

正岡子規明治35年に亡くなった以後、新詩社派と根岸派の対立は、さらに深刻な状況となった。仲介役として、森鴎外(1862~1922)が観潮楼歌会を開いていた(明治40年~43年)。明治35年に絶頂期を迎えていた「明星」は衰微し始め、北原白秋吉井勇、木下杢太郎の脱退をきっかけに、明治41年に廃刊。その後、「明星」の後身というべき「スバル」が、石川啄木吉井勇、木下杢太郎らを中心とする詩社派により、明治42年に創刊された。

3、明治43年
明治41年以後、歌壇の趨勢が「明星(スバル)」から「アララギ」へと移っていった。
明治42年、文壇では西欧近代思潮・自然主義思潮が最盛していた。
明治43年の歌集
 若山牧水『独り歌へる』(1月出版)・前田夕暮『収穫』

 金子薫園『覚めたる歌』  与謝野寛『相聞』(3月出版)

    土岐哀果『NAKIWARAI』(4月出版) 吉井勇『酒ほがひ』(9月出版)

    石川啄木『一握の砂』(12月出版)
    ↓

この現象(名歌集の誕生)は、当時の文壇に興隆する西欧近代思潮や自然主義文学による反映
   3月結社誌『創刊』...「所謂スバル派の歌を評す」として、近代短歌の本質をめぐる論議を掲載。(牧水・夕暮・啄木・哀果・空穂・白秋・水穂)        

明治43年 短歌滅亡論
『創作』10月号に尾上柴舟「短歌滅亡私論」 

                               対 

11月号に石川啄木「一利己主義者と友人との対話」

尾上柴舟...「短歌の形式が、今日の吾人を十分に写し出だす力があるものであるかを疑ふ」韻文時代は、すでに過去の一夢と過ぎ去つた。(略)短歌の存続を否認しよう」
    

石川啄木

「歌といふ詩形を持つてるといふことは、我々日本人の少ししかもたない幸福のうちの一つだ」

(生活派短歌...大正2年9月創刊『生活と芸術』に啄木の遺志が継承される) 
      ↓
この滅亡論争が、次代を担う歌人を高揚させ、刺激する大きなエネルギー源となった。

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〈前川佐美雄生誕より昭和10年までの背景〉
明治36年 1903 0歳 2月 前川佐美雄生
明治37年 1904 1歳             日露戦争
明治38年 1905 2歳             日露戦争
明治39年 1906 3歳
明治40年 1907 4歳
明治41年 1908 5歳             『明星』廃刊(*注1)
明治42年 1909 6歳
明治43年 1910 7歳
明治44年 1911 8歳 水彩画を始める
明治45年 1912 9歳
大正1年  1912                    大正デモクラシー
大正2年     1913 10歳             大正デモクラシー
大正3年  1914 11歳 初めて短歌を作る    第一次世界大戦 大正デモクラシー
大正4年  1915 12歳             第一次世界大戦 大正デモクラシー
大正5年  1916 13歳      スイス・ダダイスム(*注2) 大正デモクラシー
大正6年  1917 14歳             第一次世界大戦 大正デモクラシー
大正7年  1918 15歳 下淵農林学校に入学   第一次世界大戦 大正デモクラシー  
大正8年  1919 16歳             大正デモクラシー
大正9年  1920 17歳             大正デモクラシー
大正10年   1921 18歳 心の花         大正デモクラシー
大正11年   1922 19歳 上京      東洋大学東洋文科に入学 大正デモクラシー
大正12年 1923 20歳               大正デモクラシー
大正13年 1924 21歳                                           仏・シュールレアリスム運動(*注3)  
                      大正デモクラシー
大正14年 1925 22歳 帰郷            自由律運動(*注4)
大正15年 1926 23歳              3月 島木赤彦没(51歳)『アララギ』の衰退
昭和1年   1926 再上京                   7月 雑誌『改造』・「短歌は滅亡せざるか」
昭和2年   1927 24歳             前川佐美雄と土屋文明の模倣論争
昭和3年   1928 25歳 新興歌人連盟      新興歌人連盟の結成
昭和4年   1929 26歳 プロレタリア歌人同盟脱退
昭和5年 1930 27歳 心の花 第1歌集「植物祭」
昭和6年 1931 28歳
昭和7年 1932 29歳
昭和8年 1933 30歳
昭和9年 1934 31歳
昭和10年  1935 32歳         時代圧力の昂進と美の象徴性の獲得 坪野哲久
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注1)『明星』廃刊:短歌史的には明星的浪漫主義が衰えて、自然主義が勢いを強めている時期
注2)ダダイズム第一次世界大戦下の鬱屈した現実の反動として発生した。おもに伝統的な美学を拒絶し、政治的に反戦を主張する運動。
注3)シュールレアリスム運動:アンドレ・ブルトンの「シュールレアリスム宣言」から始まる芸術運動「夢と現実の矛盾した状態の肯定」
注4)自由律運動:自由律短歌はそのまま口語短歌運動と結び付き口語自由律短歌として発展。

【引用文献】『日本近代短歌史の構築』 太田登 八木書店(2006)

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よくまとめてあります。次が問題。期待します。
レプリカの鯨 | 2017年09月20日
近代短歌史の変遷を対立的によくまとめてあります。次は、前川佐美雄が、なにを取り、なにを捨てて、そしてどう進歩あるいは変化させて、自分のスタイルをつくりあげていったかですよね。そして、そのどこが、筆者の嗜好とフィットしたかという展開になると思います。期待しています。これからですよ。

 

返信
御礼です。Re:よくまとめてあります。次が問題。期待します。
関口 | 2017年09月21日
レプリカの鯨様

仰せの通りで、コメントを嬉しく思っております。
ご指摘のことが、自分の一番の興味になります。

現時点での今後の見通しは、
アララギの衰退
②前川佐美雄の後期の略歴
をまとめてからの、取り組みになります。

まだ、地ならしの段階ですが、いつも変わらずご助言を頂き、有り難うございます。励みになります。

関口拝