Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

第三十四回 個人研究(7)

岡井隆『禁忌と好色』を読む 2017.6.29

 

すりガラス様の濁りに耐へながら後半生を生きむかわれも

  興るものは、かならず亡びると、人ごとのように言う。
ある愛のかたむきてゆくかそけさを母(ぼ)韻(ゐん)推移のごとく嘆かふ

 一首目、すりガラスが姿かたちの澄まないことに耐えるように、後の半生を生きるのか、私も。澄んだガラスと比べて、すりガラスを「様の濁り」のあるもの、劣ったものと感じている。日常のなかでひろく浸透したものに対する批評が、自分の行く先の不安を表現する素材として活かされている。
 二首目、ある愛が傾き、失われて幽かなものとなるのを、言葉の韻が移ろうことと同じように嘆かれる。詞書から、「この愛」を、ある文化や受け継がれてきた様式(を愛すること)、という意味で読んでいたが、それでは「母韻推移」と意味合いが重なってしまうだろうか。ここでは一般的な人が人を愛することと読んでいいかと今は思う。ある愛が生まれ、また失われていくことを母韻推移に例えた魅力は大きい。ただ具体的なものではなく「ある愛」としたことで若干大げさになりすぎるようにも感じる。


その他、よいと思った歌。

あたたかき飯(いひ)を欲して歩みゐる今内視鏡插(さ)して来しかば

歳月の媒介(なかだち)したるやはらぎをねがへるわれは階昇りゆく

  梅雨の夜、ふかく。
妻よいま肉桂(ニッキ)ふくみて物を言ふあふれて過ぎし情は湖(みづうみ)

(文責:石川)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

横合いから
レプリカの鯨 | 2017年07月08日
普通の硝子とすりガラスの差はなんでしょうか。建築材としてかんがえたとき、硝子は①光を通し②雨風をしのぐ、すり硝子はそれに加えて、③視線を遮る、という機能があります。すり硝子は、そのためにわざわざ加工を加えています。したがって、カーテンなどがまだ高かった時代、すりガラスはガラス以上の機能があったと記憶します。したがって、ここはガラスとの比較ではない、という関口さんの意見に賛成です。ようの濁り、ですからここはあくまでも比喩。では濁りとはなにか。それは、すりガラスが、目隠しであるということです。と同時に、曖昧ながら、向こう側が見えてしまう、ということです。この曖昧ながら向こう側が見えるということ、つまり、視界が曖昧にされる(なっている)、ということを、作者はいっているのでしょう。もちろん全く見えないわけではなく、なんとなく明るいが、しかし、曖昧にして先が見えないという、彼自身の生きざまを歌っているような気がします。作者自身でもあり、それを取り巻く世界でもある。世界との関係ですね。もう一首のほうは、母(ぼ)韻(ゐん)推移」という比喩がとても気になります。英語史のなかに出てくるようですが、彼が、なぜこの語を使ったのか。あるいは、日本語のなかの、ゐ、ヰ、などを意識したのか教えてください。

 

返信
Re:横合いから
関口 | 2017年07月09日
ご助言を頂き、有り難うございます。自分は説明が下手なので、どうして、「視線を遮る」「視界が曖昧」という言葉が出て来なかったのか、大いに反省しております。
知識量の多さ、その知識や語彙の豊かさを扱いきれることにも、底力を感じました。
代弁をして頂いた気がしており、御礼、申し上げます。

 

返信
「様の濁り」について返信
石川 | 2017年07月05日
様(ヨウ)と読みましたが、曇った(濁った)ような表面のすりガラス、を想像して読みました。

「すりガラス」の表すものとして、私は実物そのもの濁りというより、必要に応じて形を変えてしまったもの、という成り立ちを表すものと取りました(掲出の私の訳では実物と取れますが・・。)
ガラスは本来透明(を目指すもの)で光を通すもの、空気のみを遮断するもの。その表面に傷をつけて光も遮るものとしたのは日常生活の必要に応じてですが、ガラスとしての「様」(すがた)としては濁ってしまったもの、と作者は捉えているのではと。
その意味で文中では「劣ったもの」としました。
関口さんの解釈だと「すりガラス」は作者の生きる世界を表しているようですね。私の場合は作者自身と取りました。
ただ関口さんの言われた通り、単なる優劣を言っているわけではないというのは同意見です。
この他の岡井隆の歌で、

後退(あとしざ)りしてゆく形態(かたち)わが生(せい)にありありと見て人は言ひけむ

という歌があり、すりガラスの歌と通じるものと思いました。

 

返信
Re:「様の濁り」について返信
関口 | 2017年07月05日

石川さんの解釈「必要に応じて形を変えてしまったもの」は、私にはない発想でした。

作者自身が、必要に応じて形を変えてしまったすりガラスの様な自分に自分で耐えながら、すりガラスの様な自分のまま、自分の後半人生を生きるか。

という解釈になりました。

私の中で不明な箇所があり、お考えを尋ねたいのが、
作者は何に「耐えて」いるのか。
結句の「われも」の「も」の二点です。

 

返信
一首目についてです。
関口 | 2017年07月02日

すりガラス様の濁りに耐へながら後半生を生きむかわれも

すりガラスのようにはっきりしない、我が立ち位置と外界、を我慢して、私も(すりガラスのような濁りある)後半の人生を生きるとするか

と解釈しました。石川さんの解釈と違う点は、作者は「すりガラスを「様の濁り」のあるもの、劣ったもの」とは思っていないのではないか。ここでは、ガラスの優劣は解釈に必要なく、「外界の見えにくさ」「外界からの自分の見えにくさ」をすりガラスの濁りに例えており、一番主張したいのは、その「(濁りに)耐へながら」生きてきて、また、これからもそうして生きていく自己像、かと考えました。

 

返信
「様の濁り」についての質問です。
関口 | 2017年07月02日

「様の濁り」の直訳は、

すりガラスのその(独特な)様(サマ)の濁り

という意味でよろしいでしょうか。