第五十三回 『さすらひ』尾山篤二郎
『さすらひ』尾山篤二郎(大正二年)
<選歌10首>(全544首より)
霧(きり)か、闇(やみ)か、樹間(こま)うす青(あを)くただよへりしたいままなる樹木(じゆもく)の呼吸(こきふ)
野(の)のなからひ、闇(やみ)のみどりのいやはてに光(ひか)るものが草笛(くさぶえ)を吹(ふ)く
やすらかに空(そら)に首(かうべ)をあぐる花地(はなち)にはふ小草(こくさ)ゆるやかなる色(いろ)
黄(き)と白(しろ)の光(ひか)りのうちに泳(およ)げるがごとく踊(をど)れり一樹(じゆ)のポプラ
そこはかと蛼(こほろぎ)のなくかたはらの仄(ほの)あかるさに野(の)をみはるかす
黙(もく)してあれ、冷(ひやゝ)かに地(ち)をみつめてあれ、わがかたへの秋(あき)のやうやく動(うご)く
朝夕(あさゆふ)の祈祷(いのり)も秋(あき)おぼゆらむいのりの席(むしろ)こひしかりけり
いでてまた打(う)ちひしがれて来(こ)し心(こゝろ)衢(ちまた)はさびし衢(ちまた)はさびし
今宵(こよひ)この酒(さけ)のむしろに一すぢの水(みづ)に似(に)しもの流(なが)れてやまず
またもこのリキュールグラスの可愛(かあ)ゆさに蹌踉(さうらう)として攀づる階段(かいだん)
『さすらひ』について
第二歌集。作者23歳時。石川県金沢市出身。明治22年生、昭和38年に歿(73歳)。
序文に前田夕暮(30歳時)と若山牧水(28歳時)が寄稿している。感想として、出だしは勢いもあり、言葉遣いも表現方法も見事であるが、中盤からやはり素材が一辺倒し、後半は自分に囚われて抜け出せずにいる印象を受けた。『さすらひ』とは放浪、落ちぶれなどの意味がある。作者は読者に何を伝えたかったのだろうか。「ありのままの落ちぶれた私を見て」というスタンスでは(作者と同じ境遇であっても)読者には響かない。そして、そこから抜け出す時に、技巧や語彙で補ってごまかそうとしても、それも見破られてしまう。「(こんな歌を詠む)自分自身を見てほしい」、という立ち位置から作者が離れられていない印象がある。
【参考・引用文献】 『現代短歌全集』第二巻 筑摩書房(1980)