Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

第六十一回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(18)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ④

第六十一回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(18)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ④


1、誕生から『植物祭』までー④

〈『植物祭』巻頭歌から読み取れる特徴 〉 

・表現の斬新さを求める姿勢

巻頭歌

  かなしみを締(し)めあげることに人間のちからを尽(つく)して夜(よる)もねむれず 

 眠れないのはかなしいからではなく、かなしみを締めあげることに懸命になっているからだ。〈かなしみを→こらえる〉といった文脈で普通はあらわされるものを、〈かなしみを→締めあげる〉と予想外のつなげ方で誇張している。                      

 ここに表現上の斬新さを求める姿勢がはっきりとあらわれている。

 

・作為的な設定

九首目

  晴着(はれぎ)きて夜ふけの街に出でてをる我のさびしさは誰も知るまじ

晴着を着て人気のない夜ふけの街にいるという設定は演技性の強いナンセンスである。ここから、読者は作者の個的体験としての夜ふけの外出や、作者の孤独感の特殊な表現の形を読みとることは、不可能ではないがかなり無理がある。むしろ、作為的な場面設定としての外出を自然に読み手が想定することが、この歌の狙いだと考えていい。

 表現の問題に焦点をあて、その作為的な設定を強調しておく。 

 

・奇妙な自己客体化
十一首目

  床(とこ)の間(ま)に祭られてあるわが首をうつつならねば泣いて見てゐし

 自分の首が床の間に祭られているあって、その首を自分が見ている構図である。見ている私は、首の無い私か、それとももう一人別の私なのか、どちらにも考えることができる。その想定は自由である。〈首だけの私〉←〈それを見て泣いている私〉←〈自分の首を見て泣いている私を見つめる作者としての私〉。視線はこのように注がれていて、自己を客観視する奇妙な視点が提出されている。

 この自己客体化がこの歌の大きな特徴だと言える。

 

*『春の日』の〈景〉と〈心〉の整序された照応とくらべると、『植物祭』の一連は全く異質な世界だといっていい。この異質ぶりに、新興短歌昂揚期における佐美雄の心意気がよくあらわれている。

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次回は概略に記載されている、表現の特質(自己の客体化)ついてを要約します。

【参考・引用文献】 
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)