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「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

第六十六回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(23)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑨

第六十六回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(23)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑨

〈『植物祭』の史的意義 〉

〇外的な枠組みが本質的な問題ではない大切なのは“方法”である(という主張)。 p105

〇プロレタリア短歌からもモダニズム短歌からも離れる、曲がり角時代の歌集。p114

  

 プロレタリア短歌やモダニズム短歌は、大正期短歌の否定をモチーフに始まっている。佐美雄はどちらからも影響をうけていた時期があったが、『植物祭』においては、それらを排除する姿勢を見せている。そして、昭和5年の6月、7月、『心の花』に「真の芸術的短歌とは何か」という文書を書いている(以下に要約)。

 “今日の短歌は余りにも同一方向からのみ眺められてゐる。十人十色といふ言葉があるが、百人一色千人一色の有様だ。この有様が、歌人ら自らをして、非常に短歌を嫌悪せしめてゐるのだ“

 その状態から脱出するためには、短歌の革命を志すためには、何が必要なのだろうか。

   “それは決して、短歌定型を変革する事でもなければ、口語と文語との問題でも無ければ、短歌に思想(意味)を持たせることでもなければ、単に新しい素材を持って来るといふことだけでもない。これらは或る場合に於いては一つの要素とはなりうるだろうが、それらによつて革新は成就され得ない”

 “(革新の肝心事は)それはただの方法、方法のみによつてである”

 “その方法とは、「新しい角度からみる」ただそれだけのことである。「新しい角度から見る」には「新しい精神(エスプリ)」が必要である。ここで、コクトウの言を引かう。「真の現実の主義は、僕らが毎日触れてゐるために最早や機械的にしか見なくなつてゐる事物を、それを始めて見るかのやうな、新しい角度を以て示すことにある」これはつまり、そのあらはれて来るところのものは別段特別な材料ではない、カメラのアングルの置き方が非常に新しい角度であるために、そのあらはれたものは全くこの世にはじめて見るかの如き新鮮さを覚える”

 “革新のための方法とは「新しい角度から見る」つまり、「新しいカメラアングル」を獲得することである”

 

 そして、佐美雄に関して本文ではこのような評が載せられている。

比喩に禁欲的な大正期短歌ののちにあらわれた、ダダイズムシュールレアリスムを摂取した歌人は数え切れないほどいたが、摂取し、喩表現(能動的比喩)としての歌の力に還元できたのは前川佐美雄一人である(永田和宏『解析短歌論』)。
  

【参考・引用文献】 
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)