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「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

第六十九回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(26)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑫

第六十九回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(26)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑫

 

『白鳳』の世界—シュールレアリスムの内面化 p126

1、《野》の発見

 

    野にかへり野に爬虫類をやしなふはつひに復讐にそなへむがため

   

  『白鳳』の巻頭歌である。ここでは、復讐にそなえるためのものは、『植物祭』に出て来た「蛇」ではなく「爬虫類」となっている。それは、「つひに」といった復讐心の根深さと関係があるだろう。この復讐心は一過性の感覚的なものではなく、心底からのものであり、時間的に風化するものではないということ、その気配は、「蛇」から「爬虫類」と抽象化したところに帯びている。『白鳳』の巻頭歌は、『植物祭』の世間に対する否定感情をより内在化した感じがある。心の中に根を下ろし血肉化した感情の発した復讐心といったものである。

 では、その復讐心は何に向けられたものなのだろうか。「野にかへり野に爬虫類をやしなふは」と繰り返し強調する「野」の設定が、都市文化、近代への憎悪と考えることは出来るが、そこに特定してしまうと、復讐心の根深さの意義が痩せてしまうように感じられる。大切なことは、揺るぎない復讐心が「野」に結びついたこと、である。自身の立脚点として、佐美雄は「野」という場を発見した。これが『白鳳』一冊の最も大きな意義である。この意義を巻頭歌は、象徴的にあらわしている。

 

  いきものの人ひとりゐぬ野の上の空の青さよとことはにあれ

  青空を低めてわれを神にする術(すべ)もあれよと野の上にいのる

  百年の夢をむさぼる野良の身はつひに植物のましろさとなれ

  植物はいよいよ白くなりはててもはや百年野にひとを見ず

 

 引用歌全体から浮かびあがってくるのは深い喪失感である。何を失ったのかは分からないが、一首目の人気のない野にいる自身の孤独を見つめる内省性、二首目の「青空を低めて」とくる不逞な表現に、『植物祭』が確かに生きながらも、シュールレアリスムの方法の露出ではなく、自然に身に馴染んだ表現法の内面化を思わせる。

 『白鳳』の佐美雄の歌は「私」の内面を風景化しようとするモチーフが強く流れている。ひどく抽象的でありながら十分に心的な表出を感じさせる。それを何かを見失った者の深い困惑とすれば、その困惑さがシュールレアリスム的なもの言いと結びついた厚味、それらが『白鳳』の魅力である。

 佐美雄は常に見えないものを見続けた歌人だった。「野」は見えないものを遠望するための場所として佐美雄に不可欠のものであった。遠望の場所、自問自答の場所である「野」は、『白鳳』における作品によって発見された。

 

  下記、結びの二首である。

 

  野にかへり春億万の花のなかに探(さが)したづぬるわが母はなし

  億万の春のはなばな食べつくし死にたる奴はわれかも知れぬ

 

 一首目、わが母は億万の花々のどこにも居らず、私は花々の中に自分さえも見失ってしまった、そんなふうに読める。二首目は、自分を客体化しながら行なう自己批評であることが確認できる。

 この例歌だけでなく、『白鳳』はもっと抽象的な場面が提出されていて、その抽象性から滲みでるものを受け取とることが大切である。歌自体がそれを要求しているともいえる。

 「わが母はなし」、「われかも知れぬ」という感知、こうした不安定な自問自答が「野」と結びついている点が、最も興味深い。もろともを呑み込んだ「野」の奥深さを発見した時、佐美雄の自問自答は『植物祭』からはっきり踏み出したといえる。

 最後になるが、この抽象的でしかも内面的な「野」が佐美雄の作品に登場するのは、『植物祭』刊行の半年後の昭和6年1月である。つまり、製作時期は、世間では『植物祭』が天才論でボルテージを上げていた頃である。こうした血気盛んな時期に、佐美雄は、抽象的ではあるが実質的で内面的な「野」という場所が用意されていた。この経緯に、佐美雄の詩人としての冷静さを見るべきである。 

 

  【参考・引用文献】 
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)