第七十回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(27)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑬
第七十回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(27)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑬
ー基盤模索時代(1)ーp131
『白鳳』の後記では、佐美雄は「かへりみると昭和四、五年の二年間はだいたい作歌を中止している」「昭和六年になつて「短歌作品」といふ小歌誌をはじめたのでまたぼちぼち作り出した」とある。
雑誌「短歌作品」は休刊し続けており、昭和九年六月、雑誌「日本歌人」を始めるまでは、作歌活動はとぎれがちに続いていた。読みようによっては『植物祭』から『大和』への移行期の作品を集めたのが『白鳳』であるともとれる。
この時期には、佐美雄はシュールレアリスムやプロレタリア短歌から離れた立場を掲げていただけに、シュールレアリスムを取り入れた『植物祭』(第一歌集)は、一回性の斬新さでなければならず、『植物祭』の成果の大きさ故に次の一歩はよりむずかしいものになったと考えられる。
佐美雄は、そうした個人的文学課題に密接に関係して、「心の花」という母体を離れて、自分の基盤となる短歌集団の形成について模索していた。
それが『白鳳』の背景であり、佐美雄自身も「昭和九年ごろまでは十分作歌に打ち込むだけの余裕をえてゐない」と述べている。
・昭和6年1月 「短歌作品」を創刊
・昭和8年春 「カメレオン」の出発
(*「短歌作品」は佐美雄を中心に石川信雄、木俣修、斎藤史らが創刊同人として集まったもので、木俣自身『定型を守持する芸術派がはじめて集合した雑誌』とのべている)
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【参考・引用文献】
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)
*次回は、昭和6年9月18日に起きた柳条湖事件を背景にした文化運動を含め、上記の「日本歌人」創刊までを要約します。
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