Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首 ー 平井俊

ふれようと思えば届く距離にいる深夜のマクドナルドに座り

  平井俊『角川短歌角川文化振興財団(2018・11月号) p60 

<メモ・感想>

 第64回角川短歌賞の次席であった、『蝶の標本』より、一番良いと思った歌をあげた。なぜこの歌にしたかと言うと、歌を起点に、作者の動作と心が一致して成り立っている歌だったからである。「リアル」だったからである。

 選考座談会の選者は、伊藤和彦氏、永田和宏氏、小池光氏、東直子氏であった。幾つか心に留まった歌評や御意見をここに記す。まず、東氏の「新人として新しいものを表現に取り組んだ部分があった方がいい」という考え。そして、総評での永田氏の「訴えてくるもの」、「部分と全体」、「個々の部分、フレーズが輝いていないと歌は読めない。それが一首の中で生きているか、全体の中で一首が生きるかという問題があって、部分と全体とがどう流れていくかということが、五十首を詠むときに大事になる」、「自閉している歌が多い。作者は自分の感じたことを呟いているけど、声が前に出てないから相手に伝わらない。呟くのではなくて伝えるという作り方の歌が我々に訴えかけてくる」。

 「五七五七七」をどう受け止め、どう使うのか。私はこう思う。一首を、質の高いものに完成させたいという欲、と、このことをどうにか伝えたいという真っ直ぐな気持ち、そのどちらもが、作歌に必要な心掛けではないか、と。そして、読者がいるならば、読者を求めるならば、読者に聴こえるくらいの声量は出す。そう、私自身は努力していきたい。

本日の一篇(ニ) ー 宇野千代

何を書くかは、あなたが決定します。しかし、間違っても、巧いことを書いてやろう、とか、人の度肝を抜くようなことを書いてやろう、とか、<略>決して、思ってはなりません。日本語で許された最小限の単純な言葉をもって、いま、机の前に坐っている瞬間に、あなたの眼に見えたこと、あなたの耳に聞こえたこと、あなたの心に浮かんだことを書くのです。<略>一字一句正確に、出来るだけ単純に書くのです。<略>素直に、単純に、そのままを書くということが、第一段階の練習であり、やがて、大きなものの書ける基本である。

  宇野千代 著・出典不明

<メモ・感想>

 2017年10月13日に八雁横浜短歌会の歌会時に、阿木津英氏より配布。

 

       

本日の一篇(一) ー 宇野千代

 ものを書こうとするときには、誰でも机の前に坐る。書こうと思うときだけに坐るのではなく、書こうと思ってもいないときにでも坐る。<略>或るときは坐ったけれど、あとは忙しかったから、二、三日、間をおいてから坐るというのではなく、毎日坐るのです。<略>

 小説は誰にでも書けるが、毎日、どんなことがあっても坐ると言うことは、誰にでも出来ることではありません。今日一日くらい、坐らなくても好いではないか、とちょっと思ったりする。決して、そんなことを思ってはならない。毎日、ニ十分でも坐るのです。坐ると、昨日まで自分の考えていたこと、書いたことをぱっと思い出す。つまり、昨日までのあなたの技術と、今日これから書く技術とがつながるのです。

 つながる。毎日つながる。<略> それはつながり、重なる。<略> あなたの能力は積み重なる。この作用があるために、毎日坐るのです。坐らない日があると、積み重ねたあなたの能力は、そこでぷつりと切れる。そんな馬鹿なことがあって好いものでしょうか。<略>

 毎日坐って、坐ってから考えるのです。何を書くか、どえらいものを書こうとしてはいけない。肩の力を抜いて、ただ、頭に浮かんだことを正確に書くのです。<略>

  宇野千代 著・出典不明

<メモ・感想>

 2017年10月13日に八雁横浜短歌会の歌会時に、阿木津英氏より配布。メモには、「歌の種をひろう」、「ただ歌を坐して見る、そのうち、嫌でも手を入れたくなる」、「毎日、坐る」とある。

 

       

本日の一首 ー 玉城徹

学ぶこと第一。第二は作ることぞ。人に知られむは末の末かも

  玉城徹 『玉城徹全歌集』 いりの舎 (2017)  

<メモ・感想>

最近、更に、ぼやっと生活をしてしまっている。掲出歌は、私がちょうど眼を痛めて、焦りに焦っていた際に、阿木津英氏より知らされた一首である。その当時、私の毎日は短歌のことで頭の中がいっぱいだった。父の看護と少々の短歌関連の仕事にあっぷあっぷし、結果、作歌が最も疎かになっていた。この歌を覚えていたのは、ごく単純且つ至極当然の作歌姿勢を、強くお示しになられていたからである。その当時は、末の末のことは誰にも分からないの箇所に納得していただけであるが、今は異なる。学んで作る。作りながら学ぶ。その終着点に何が待っているかは分からない。歌集すら出せずに一生を終えるかも知れない。でも、作りながら、本当に自分の、言いたい事、伝えたい事、感動した事を詠い、出会えてよかった一首をより多く、広く、深く知る事。そして、その行程の「質」を高めていく、それが、歌と共に生きてゆく上で最も慎重に志すところであり、その様な気概を持つことが人生の悦びだと、私なりに受け止めている。玉城徹氏に「一生、読み、一生、詠む、それでいいのだ」と、大きな判子を押された気持ちになった。         

本日の一首 ー 玉城徹

石をもて彫りたるごときはくれんの玉のつぼみの恋ほしきものを

チュリップのま白き花を露一つすべりて落つと見し日はるけし

松原に遊歩の道のとほれるに人ふたりありてやぶ椿の花

三女性おじぎうやうやしくパフェ退治見れば若からず美しからず

 玉城徹 『玉城徹全歌集』 いりの舎 (2017)  

<メモ・感想>

このところ、短歌の何の本も開くことなく過ごしている。ぱらぱらとは見るのだが、感動がなかった。北原白秋の「泣かまほしけれ」ではないが、ああ感動したい、と思っていた。そんな今日、ふと、思い出したのが、上記、掲出歌の一首目と四首目である。一首目は初句を記憶していた歌、四首目は内容を覚えていた歌。二首目、三首目は、読み返して良い歌だと思い、又、玉城徹氏が幅広い題材を歌にしていた証として記した。そう、玉城徹氏の歌の魅力は一つに、どの様な光景も言葉によって美しく浮き彫りにする点、そして、もう一つ、重要な点は、その言葉の連なりに在る「韻律」の美しさ、だとしみじみ思った。短歌は「歌」である。そこには「音」がある。音というのは不思議と人の寂しさを慰める作用があると、この四首を選歌しながら、改めて感じた。意味も大事、文法も大事、解釈も大事、でも、そんなことで短歌の何が体感出来るであろう。寂しい時に欲する歌に、いちいち、悠長な理由はつけられない。ただ、欲する。迷い迷いてこれかこれかと歌集を開く。玉城徹氏の歌の力は、この様な時に、耳が覚えている「調べ」にある。その効力は筆舌し難い程であるが、まだまだ短歌を信じて行く、まだまだ短歌の知らない魅力がある、まだまだ、まだまだ、だと、愉しさと厳しさを知らしめられた思いがした。もう駄目だという時に、短歌を信じる、歌への、信頼を、力を、与えられた。

第七十九回 『東京紅橙集』 吉井勇

第七十九回 『東京紅橙集』 吉井勇
<選歌二首>(全三〇七首より)

臙脂(えんじ)の香(か)おしろいの香(か)もなつかしや金春湯(こんぱるゆ)より春(はる)の風(かぜ)ふく

栄竜(えいりう)がゆたかなる頬(ほ)に見入る(みいる)ときはじめて春(はる)の闌(たけはな)を知る

  〈メモ・感想〉

  「春」という語には、様々な要素や作用が含まれている。何かが始まる。一斉に始まる。この一年を占うような変動する春。勢いづく春。上記二首の「春」は歌の中で上手に活かされ、歌にメッセージをもたらしている。私自身も春を使った歌があるが、無自覚であった。この様な気付きがようやく出来るようになった。 

【参考・引用文献】『現代短歌全集』第三巻  筑摩書房(1980)

第七十八回 『翡翠』片山広子

第七十八回 『翡翠片山広子
<選歌三首>(全三〇〇首より)

わが指に小さく光る青き石見つつも遠きわたつみを恋ふ

あめつちのちひさきことのみが我が黒き眼にかろく映りぬ

くれなゐのうばらの花に白う咲けとのたまはすなりせまきみここころ

  〈メモ・感想〉

  序文を佐佐木信綱が記している。「巧みを捨てた歌集でありたい」というのが片山広子自身の思いだったそうである。しかし、本歌集は意図してその巧みな歌を捨てずに掲載したという経緯があったそうだ。恥を忘れない為であったらしい。一首目は指輪の青い小さい石から過去を思い出す、景をクレッシェンドのように大きくしていく点、二首目は「我が黒き眼」の「黒き」をいれることで、「あめつち」と対を成している点、三首目は「うばら」、「のたまはす」、又、ひらがな表記など、語の使い方に学ぶところがあった。だがしかし、何か大切なことを曝け出していない感触が残る。もう一息、歌から作者の生身の感情がはみ出ていれば、とも思われる。いかがであろうか。

 【参考・引用文献】『現代短歌全集』第三巻  筑摩書房(1980)