本日の一首 ー前川緑(七)
和泉川見つつしをれどなぐさまず遠きこころを秋風の吹く
僅かなるよろこび湧けと吾がいはずをさなごの手を引きて走りぬ
『恭邇の京址』
唉き匂ふ八重の桜ざかり見のあかぬかもこころは空に
『櫻 春日萬葉植物園』
雨風のいよよ荒びてゆふぐれぬ嵐の中の樹木や白き
ガスの火の炎の青き夕土間にあな堪へがたし雨風の音
『雨風』
吾が子等の小さき胸に育つものかくもかなしく手に受けきれず
『歸帰』
止み間なく霙降りゐて光りつつ樹に橙(だいだい)は祝副(さきわい)のごと
『橙』
前川緑『現代短歌文庫』砂子屋書房 (2009)
<メモ・感想>
一首目、「和泉川みつつ『し』をれど」の『し』の挿入。二首目「吾『が』」の『が』、つい「吾『は』」としてしまいそうであるが、客観的に状況を捉えた言葉の置き方をしている。
三首目は、「見のあかぬ『かも』」まで抑えていた内情が、結句の「こころは空に」で一気に表出し、読者は面食らう。
四首目も器用(奇妙?)な詠み方をしている。「樹木」まで上の句が掛かるが、そこで終わらない。「樹木や白き」、この「白き」が無ければ、平凡な歌になってしまう。ここに前川緑の凄みを感じた。
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*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。
本日の一首 ー前川緑(六)
匂ひなき何の花かもからからと夏の終りの畑に吹かるる
ものの終りはかくあるべしや八月の土用波立つ海のはろけさ
『卵の殻』
なにものに追ひ立てらるる身か知らず水を覗けば棲む生きものら
ふきちぎられし小枝のごとくふるへつつこの世の路に女はありしか
『箱根』
うろうろと北より風の吹き來るをたのみがたくも樹もゆれて居り
この年の四月はゆきぬわが窓ゆ吹き入る風になやみなきごと
ゆふべ黒き翼をたたむ鳥ほどもわがふるまへず何にあらがふ
おろかしく過ぎゆく日々を歎かへど小笹にまじり桔梗ゆれつつ
『観覧車』
前川緑『現代短歌文庫』砂子屋書房 (2009)
<メモ・感想>
自然と対話している。私の当初の前川緑の歌への歌評はそこを起点にしたものであった。けれども、今回の掲出歌を拝読し、自然を纏った歌、自然を纏った感覚のまま詠い詠える歌人に出会った気がしている。そして、それは、どの様な崇高さとも比べる訳にはいかない唯一無二の特性だと思える。彼女の心の中は決してしんとした静けさだけではない、随分と内気な内面が外界に触れる時、焔が微かに立つ。それが、前川緑の歌を歌として成り立たせている力動だと思われた。
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本日の一首 ー 大川智子
旧姓をペンネーム欄に記しゆく偽りのなきわたしの名前
大川智子『八雁』(2021年・5月号) p26
<メモ・感想>
この歌を初めて拝読した時、「偽りのなき」の意味が分からず、しばらく、そのままにしてしまっていた。「旧姓」=「偽りない自分の名前」という事は、「現在の新たな姓」=「偽りの自分の名前」、なのかとまで曲解し、それでも、「偽りのなき」の意味が、分からなかった。そして、数日が経ち、読み直してふと、光景が見えた気がした。婚前の自身の名前を書く。しかし、それはもはや「実名」ではない。自分の旧姓を書ける場所の一つに「ペンネーム」欄がある、その、もの悲しさ。生まれて生きてきて、何度も呼ばれ続けてきた姓が変わる。変わった途端に、旧姓を書く場がたちまち減り、自分で考えたあだ名や雅号では決して無いのに、実名欄には書けず、ペンネームと同じ扱いになってしまう、その、虚無感。それを、作者は述べたかったのではないか。そうであれば、この「偽りのなき」という言葉の、重みと深さに驚嘆する。
本日の一首 ー前川緑
奈 良
昭和十二年七月日支事變始まる
この庭はいと荒れにけり下り立ちて見ればしどろにしやがの花咲く
朝闇をつんざきて來る銃の音ただならぬ時を額あつく居ぬ
奈良に住み西の山見る愁ありその夕雲に包まれやする
淺茅原野を野の限り泣く蟲のあらたま響き夜の原に坐す
逐語訳:淺芽原野(という地帯)を野のある限り(野原いっぺんに)泣く虫(や哺乳類)のあらたまが響いてい夜の野原に坐っている。
秋の光はやくうすれて富みの川べに龍膽つめばわが手に餘る
村人に田畑の話聞く秋を山吹の花の忘れ咲きせる
前川緑『現代短歌文庫』砂子屋書房 (2009) p26-27
<メモ・感想>
八雁短歌会の会員T氏より、この歌の一連について、鋭くも貴重なご示唆を頂いたので、ここに記す。
「淺茅原野を野の限り泣く蟲のあらたま響き夜の原に坐す」
この歌を「日支事變」と無関係に読んでも作品として充分普遍性を供えた作品だとも思う。小題も詞書も作品だと考えており、その上で、作者がわざわざ、この詞書をここに置いた意味も考えざるをえないとも思う。ただ、直球で戦争を歌うのではなく、全身で感じ取ろうとするところに魅力を感じる。(以上・要約)
私は、T氏の「この詞書をここに置いた意味も考えざるをえない」という示唆に、感動した。それに対して、自分でその応えを考えてみなくては、と思った。私が、まず最初に、考えた方法は、この詞書があった方がよいのか、無い方がよいのか、を自分で確かめる、決める(無論、これは私自身の中でディベートする為の基準を決める)ことにあった。
私は、本当は、詞書は無い方が好きである。この歌に限らずではあるが、基本的に無くても意味が通じるのであれば、歌に表しきれない事を詞書で補うのは卑怯だと思えた。不器用なら、なおさら、詞書に頼ってはいけないとも思えた。しかし、上記の歌は、不器用だからこそ加えた詞書、ではないかと推察した。的確な詞書でも無ければ、的確な用い方でもない。事実を、ぼんっと置いた、ただの言葉なのかとさえ思う。つまり、言葉の正確さに欠けるのである。ならば、削れるものは削った方がよいのではないか。と、ここまで考え至った末の結論を述べると、結局のところ、その「不器用さ」が、この歌集の一冊を通した味わいを加勢していると思う。それが「歌集」として詠む時の醍醐味であり、一首一首が大事なのは最もであるが、一冊を読み通して顕れる「歌集の貌(全体像)」を、読み手が感覚的に捉えることも大事である。
私の考えはここまでになってしまいますが、もし、少しでも思う事があれば、ご意見やご感想を賜りたくお願い申し上げます。
本日の一首 ー 佐藤有一
きつねそば食べんとかかうるどんぶりに京都「七味家」七味の香る
佐藤有一『八雁』(2021年・5月号) p78
<メモ・感想>
単純明快、明朗快活な一首。そう思える歌が歌として成している時、実は、細やかなところに創意工夫が施されていることが多い。少なくとも、私は、その様に感じている。この一首は、まず語調が良い。軽やかさは、初句の「きつねそば」と相乗効果をもたらし、読み手は簡単に読んでしまう。だが、細部に目を向けると、「(食べんと)かかうる」という語の選択や、「どんぶり」という語の正確さが、この歌の骨格を強度にしていると感じられた。その下地があってこそ、加えて、下の句の「七味」の繰り返しという遊び心が活き活きして来る。「七味」か・・・と、うな垂れた。私にはまだ見えていない、まだ見えてこない、宇宙がある。
【2021年5月1日の再開に関して(関口)】
ご高覧を頂いている方々へ
本日、5月1日より、『Karikomu』の関口の欄を再開致します。つきましては、私事で恐縮ではございますが、眼に負担がかかり過ぎない様、週二回のペースにて、今後は更新を重ねて参ります。原則、月曜日・木曜日に更新しますので、どうか、御理解並びに御容赦の程、何卒、お願い申し上げます。
皆様におかれましては、一日一日のご無事を願っております。
どうか、毎日を、お気を付けて、お過ごしくださいます様。
2021年5月1日 関口智子拝
本日の一首 ー前川緑(五)
霜凍る朝に思へばあやふくは切子の花瓶もわが碎くべき
石屑のごとく踏みつつわが魂の火花となりてかがやく日もあれ
『花瓶』
前川緑『現代短歌文庫』砂子屋書房 (2009) p26-27
<メモ・感想>
これもまた、一読でははっきりとしない箇所がある。一首目の逐語訳は、
逐語訳:霜の凍る朝にあれこれと思い考えていると、危うく、切子の花瓶すらも私は砕きそうだ。
とした。この歌も、感情の変容を担っている。
二首目は、結句の「(かがやく日も)あれ」という語に、これからの心持ちや人生の広がりを感じさせる終わらせ方が、良いと思った。
前川緑の歌は、気持ちに添って成す。内向的な感受性が現実に触れ発露する感覚を受ける。この先に、観察眼が芽生えて来るのか、興味深い。