Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首ー短歌史年表

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短歌史年表と呼ぶには、まだ及ばないが、年表の作成を試みた。

下記のサイトより、大まかな時代の年表を打ち込んだ後、現代短歌全集に載っている、歌人の生まれた年と亡くなった年を書き込んだ。www.ndl.go.jp

https://www.ndl.go.jp/modern/utility/chronology.html

夏休みの自由研究を思い出し、取り組んだ。

今のところ、自画自賛しているが、もう一工夫、自分の理解が進むように、「短歌」に絞って、年表に書き加えてゆくつもりである。

年表は、Excelファイルで作ったので、お求めの方には添付差し上げます。

投稿欄かこのサイト宛てに、お知らせください。

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*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

本日の一首ー 戦争について学ぶ

 嫌いでは無いのに、どうしても覚えられないものに、地理と歴史がある。世界史が最も頭に入らない。けれども、短歌を追ってゆく時、どうしても戦争と近代史は外せないものとして感じるようになった。せめて、日本の戦争くらいはピンと来るようにせねばと、薄々感じて、この夏を迎えた。

 昨年、2020年2月に単身生活を始めた。大規模団地の二軒先の、Kさんという88歳のおばあさまが通路ですれ違う度に、「(Kさん宅に)お出掛けください」と挨拶をしてくださっていた。2月に引っ越しを済ませていた私の新生活は、三月のコロナ発生とほぼ同時に始まった。

 一年後、2021年8月初旬、短歌史年表を作るにあたり、Kさんに戦争の話を乞うことにした。Kさんは、「難しい話なんて出来ないよ」と仰りながら、戦時中の1941年から、思い出すことを語ってくださった。

 当時、埼玉県の浦和に疎開していたそうだが、1945年の東京大空襲の時に、東京の空が真っ赤になったのを見たそうである。1941年の東条英機内閣の判断でグアムやガダルカナルに抜き打ちで上陸し、アメリカからそれらの土地を奪い、結果、逆に、アメリカに沖縄を取られ、(旧)ソ連にも北方四島を取られてしまった。その間は、テレビなどは無く、ラジオで軍艦マーチと共に日本がいかに戦争に勝っているか日々、伝えられていたそうである。1944年の頃、日本国民は日本の負けをだんだんと感じるようになって来たそうである。周りの大人が東京の方に向かって正座で頭を下げて玉音放送を聴いている。その傍らで少女だったKさん(推定12歳)は、「もう空襲で(小学校・女学校)早退を命ぜられることもないし、防空壕に入ることもないんだ」というのが、率直な感想だったらしい。

 その後も、食事は、配給で、半年から一年近く続いた。町内会で水芋が配られたそうである。戦後の配給が終わるころには、「戦争は間違っていた」という意識は周囲の人々で共通に認識し、戦争終結から13年後、1958年頃から、自由を感じるようになり、豊かで普通の生活になり始め、Kさんも息子さんを幼稚園まで送り迎えしていた。場所にもよるが、戦時中でも「生活」は確かにあり、赤紙が来なければ、普通に畑を耕し空襲が来たらすぐ引き上げる、生活時間の中にバケツリレーの練習があったり、防空壕を掘ったりとしていた。「日本国憲法」(1946・1947)など、14歳の少女にとっては、何だか難しいことを大人が言っているとしか聞こえなかった。

 こういう意識の中で、歌人は己に戦争を詠むか問いかけたであろうし、文芸が娯楽であった時代に、戦争の歌を作る依頼も来たであろう。

 2021年、コロナへの関わりを個人個人が感じ、判断せずにはいられない状況下にある。Kさんは最後に、「(政治家を含め)皆、平和ボケになったわ」、「戦争の話を聴けるのは、後10年よ」と仰られた。

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本日の一首 ー 『第113号 現代短歌新聞』(2021年8月5日発刊)を読んで

月岡道晴『視点ー研究と現代短歌の架橋』(p)を読んで

 以下、抜粋。

「戦後のある頃までは万葉集のみならず、和歌文学の研究は歌人が多くを担っていた」

「『私たちより二世代ぐらい前の研究者たちは、若い時は短歌を作るのが当たり前だった。・・・(中略)・・・私たちの世代よりひとつ年下で、研究をやりながら、歌を作っているのは月岡道晴くんぐらいなんですよね。あとは若いところでは大島武宙くん、かなぁ。』」*大島は寺井龍哉の名で多くの短歌評論を著している。

「研究者は現代短歌に関心がなく、歌詠みは研究の成果に関心がない。口語文体に覆われつつある現代短歌だが、この両者が再び手を取り合う術を探さなければ、そもそもなぜ三十一音で詠むのかも怪しくなりかねない。」

 

 この記事のちょうど真裏、現代短歌新聞の一面に、第五十五回迢空賞を受賞した俵万智氏が載っている。私にも、せっせと、詩のような、フワフワした言葉を日記に書いていた夏がある。その頃、俵万智氏の『サラダ記念日』は、いかにも軽く、短歌でもそれらを表現出来るんだよと一気に、門を開くような存在だった。キャラメルのおまけとして、俵氏(万智ちゃん)の歌がカードに付いて来る。友達や親戚のおばさんにも頼み、私はそれを搔き集めていた。テレビでは、NHKでアニメの清少納言枕草子が流れており、私はフワフワしたまま、何も気付かず、何の抵抗もなく、学校の古文の授業を楽しみに毎日、登校していた。そのうちに、夏休みの宿題で初めて短歌の指導を受け、一年間だけ短歌愛好会にも所属していた(人数が足りなくなり一年で終了した)。     

 そんな調子で、「八雁」に入り、何にも知らずに続けていた、ある日、とある賞を受賞された石井僚一氏の歌を拝見し驚いた。私の知っている「短歌」ではなかった。これが評価されるのだとしたら、私は、物凄く壮大な思い違いをして、青春時代の化石のまま、「八雁」にいたことになる。そして、石井僚一氏の歌のような系統の歌が2000年代において、少なくないことを知り、さらに後退りした。そして、始めたのが、「現代短歌全集を読む」である。どうやら、体系的な古文の勉強というのは、機会や時間が無いと中々、取り掛かるのに難しい。私は、同時期に、ある理由で退職し時間だけはあった。ぼちぼちやるしかないと思った。石井僚一と金子薫園を天秤にかけると、金子薫園の方から山の頂を目指すしかないと思えたし、それを、望んだ。両方が同じくらい未知であった。

 2021年夏は、自粛生活の上にある。私は、上記の月岡氏の記事を読み、俵万智氏の変わらぬおかっぱの写真を眺め、一合は登ったひと夏を過ごすべく、短歌史ノートを作り始めた。 

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<引用・参考文献> 『第113号 現代短歌新聞』(2021年8月5日発刊)p2

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<2021年8月2日以降の『Karikomu かりこむ』の記事欄について>(関口)

  いつもご覧頂いている方々へ

 個人研究として掲げて来た『私はなぜ前川佐美雄が好きか』の再開を試みて、私の理解が遅々としている為、これ以上、掲示板で進めていくことは難しいと痛感しました。 今後は個人研究は自分自身で進め、Karikomuでは、『現代短歌全集を読む』又は『本日の一首』の二つに記事欄を絞ることに致しました。試行錯誤、その見苦しさも含め、ここで恥をかきながら、これからも続けて参りますので、何卒、御理解頂ければと、お願い申し上げます。 

                2021年8月2日

                 関口智子 拝

第七十二回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(29)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑮

第七十二回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(29)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑮

 2018年12月19日の記事をそのまま下記に示す。それを元に、現時点での私が大事だと思う事を加筆修正しながら、お伝えするように試みる。

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 前川佐美雄にとっての第三歌集『白鳳』で、佐美雄は「かへりみると昭和四、五年の二年間はだいたい作歌を中止している」。また、「昭和六年になつて『短歌作品』(注2) といふ小歌誌をはじめたのでまたぼちぼち作り出した」とあるが、実際には、『短歌作品』は休刊し続けていた。昭和9年6月に『日本歌人』を創刊するまで、作歌活動は途切れがちに続いていた状態であった。

 昭和4年(1929)

 昭和5年(1930) 第1歌集「植物祭」(1930)

 昭和6年(1931   「短歌作品」を創刊・・・休刊

 昭和7年(1932)

 昭和9年  (1934)  「日本歌人」を創刊

 昭和15年(1940) 第2歌集「大和」甲鳥書林(1940)

 昭和16年(1941) 第3歌集「白鳳」ぐろりあ・そさえて(1941)

順序が逆になる、『白鳳』は、『植物際』から『大和』への転換期の歌を纏めたものである。 この様な転換期、すなわち、基盤模索時代をなぜ、佐美雄が必要としたのか。

 この時期に、佐美雄は「シュールレアリスム」、「プロレタリア短歌」から離れた立場を掲げていた為、シュールレアリスムを取り入れた『植物際』の成果が大きかった故に、次の足の踏み出し方が難しいものとなったと言える。そして、佐美雄は、自分自身の個人的な文学課題の一つの応えとして、母体であった「心の花」(注1)から自ら離れて、敢えて、自分の基盤となる短歌集団の形成に模索することにした。それが『白鳳』の背景であり、佐美雄自身も「昭和九年ごろまでは十分作歌に打ち込むだけの余裕をえてゐない」と述べている。 

*(注1) 「心の花」 : 短歌雑誌。佐佐木信綱明治31年(1898)2月に創刊。明治37年(1904)からは短歌結社「竹柏会」の機関誌となり、今日に至る。〈広く深くおのがじしに〉をモットーとする。前川佐美雄自身は1922年に東洋大学に入学、以来、在学中より佐々木信綱に師事していた。

*(注2) 『短歌作品』昭和6年1月創刊について:石川信雄、木俣修、斎藤史らが創刊同人として集まったもので、木俣氏は「定型を守持する芸術派がはじめて集合した雑誌」と述べている。 

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第七十一回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(28)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑭

ー基盤模索時代(1)ーp131

 『白鳳』の後記では、佐美雄は「かへりみると昭和四、五年の二年間はだいたい作歌を中止している」「昭和六年になつて「短歌作品」といふ小歌誌をはじめたのでまたぼちぼち作り出した」とある。

 雑誌「短歌作品」は休刊し続けており、昭和九年六月、雑誌「日本歌人」を始めるまでは、作歌活動はとぎれがちに続いていた。読みようによっては『植物祭』から『大和』への移行期の作品を集めたのが『白鳳』であるともとれる。             

 この時期には、佐美雄はシュールレアリスムやプロレタリア短歌から離れた立場を掲げていただけに、シュールレアリスムを取り入れた『植物祭』(第一歌集)は、一回性の斬新さでなければならず、『植物祭』の成果の大きさ故に次の一歩はよりむずかしいものになったと考えられる。

 佐美雄は、そうした個人的文学課題に密接に関係して、「心の花」という母体を離れて、自分の基盤となる短歌集団の形成について模索していた。

 それが『白鳳』の背景であり、佐美雄自身も「昭和九年ごろまでは十分作歌に打ち込むだけの余裕をえてゐない」と述べている。

 ・昭和6年1月 「短歌作品」を創刊

 ・昭和8年春  「カメレオン」の出発

 ・昭和9年6月 「日本歌人」を創刊

(*「短歌作品」は佐美雄を中心に石川信雄、木俣修、斎藤史らが創刊同人として集まったもので、木俣自身『定型を守持する芸術派がはじめて集合した雑誌』とのべている)

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 【参考・引用文献】 
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)

20130221-135308.pdf (city.katsuragi.nara.jp)

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 第1歌集「植物祭」(1930)のち靖文社 

  • 選集「くれなゐ」ぐろりあ・そさえて(1939)
  • 第2歌集「大和」甲鳥書林(1940)
  • 合同歌集「新風十人」(共著・1940)
  • 第3歌集「白鳳」ぐろりあ・そさえて(1941)
  • 第4歌集「天平雲」天理時報社(1942)
  • 第5歌集「春の日」臼井書房(1943)
  • 第6歌集「頌歌 日本し美し」青木書店(1943)
  • 第7歌集「金剛」人文書院(1945)
  • 第8歌集「紅梅」臼井書房(1946)

次回の更新につきまして。

 

Karikomuをご高覧頂いている方々へ

 

 いつも、かりこむを開いてくださり、本当に、有り難うございます。

 諸事情により、パソコンが使えない状況にある為、次回の更新

 を、7月31日(土)とさせて下さい。

 その間に、出来る限りの精読等をし、やや内容の煮詰まった記事

 をお届けしたく思っております。

 

 最後になりますが、少しでも夏の暑さを風物として感じられます様。

 

                 2021年7月25日

                   関口智子 拝

 

 

本日の一首 ー 奥村晃作

 ジョーンズの一枚の絵のどこ見ても現わし方がカンペキである

 今回は、歌の鑑賞ではなく、奥村晃作氏の魅力を伝えたく記す。

 奥村氏は「定型がベスト」という姿勢を崩さず、それでいながら、ガルマン歌会などにも足を運ばれたことがある様だ。

 私が一度、お会いしたのは、ある歌集の批評会であった。中休みに外の空気を吸いに出たら、人工的に作られた狭い庭を通る川にメダカやあめんぼがいて、それをご覧になりながら、私に、「東京でもあめんぼがいる」と声をかけてくださったのが氏であった。若い女性の多い、小さな批評会であった。すると、最後に奥村氏がやや憤る様な語調で、「とにかく、定型を守る。私は忙しい、この様な(定型でない?)歌に時間を割けない」という内容を仰った。その時、無知な私は、なぜここにいらしたんだろう、という不遜極まりない疑問しか浮かばなかった。

 その後、氏の歌集のタイトルに驚いた。『ビビッと動く』。「???」となった。確かに七音である。あんなにお堅そうに拝見していたのに、このタイトルは一体……。開いても、今一つ、よく分からない。当たり前の事を歌にしている……。

 その「当たり前の事を歌にしている」のが、如何に大変で大切なことなのかを、後々気付いて、本当に恥ずかしくなった。一方で、本当に、我が道を行き、若手の歌人への理解にも精力的に探究する精神を知った。

 そう思うと、本当にこつこつと作歌し研究することを続けてきたその精神力に、涙が出そうになる。

 歌そのもの、歌だけ、を鑑賞することは、必須であると考えている。だが、それだけで良いのだろうか。「歌」という「作品」を「作る」。「歌」そのものでは世界は変わらなくとも、「歌を作る」その行為が世界を変えることはあると、私は考えている。「歌は世界を変えられるのか」というと大仰だが、一人の人間の人間性を変える、一人の人間が歌を作り始め、作り続けていくことで、その人自身が変わることはある、と信じている。そして、それは、出来上がった歌の上手い下手の問題とは異なる、人間性、強いて、作歌姿勢から、既に始まっているものであると、思えてならない。

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<引用・参考文献> 奥村晃作『ビビッと動く』六花書林(2016)p24

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