Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首 ー 『現代短歌 第87号』を読んで。

 『現代短歌 第87号』を読んだ。今特集は「BR書評賞」(ブックレビュー賞)である。一読して難しい内容で、抽象論も多く、尻込みをした。それから数日経って、ぱらぱらと何回か眺めているうちに、ようやく、「理解してみよう」「面白そうではないか」という気がした。それでも、それにしても、難しい。

 「受賞のことば」の小野田光氏の「ストライクゾーン」(p16)は、「心の底でほんとうに思ったこと、を〈略〉言葉で正確に表すことは不可能だけれど、その言葉を受け取った人は何かを思い、感じます。」「言葉を発した人の思ったこととは〈略〉また、違ったことを思っているのではないか〈略〉、とわたしは思います」と冒頭で述べ、野球のストライクゾーンと書評を重ねて、「見えないストライクゾーンに言葉を投げ込む歌人。それを打てるかどうか見極める読者。」、「様々な歌集のストライクゾーンを書評で伝えたいのです。」としている。

  読後に、そう言い切ってよいのかと疑問を持った点がある。「言葉のある世界に育ち、暮らしているわたしは、ある程度は言葉の利便性を信じていますが、社会的な意味での言葉の正確性より、そこに収まりきらないものごとのほうが大切だと思っています。」という発言である。続いて、「言葉では伝えきれないものを、人間は言葉以外のあらゆる要素を用いて伝え合い・・・〈略〉・・・言葉では正確に表せないことを、少し形の違う言葉を用いて表そうとしている人たちが歌人なのだと、わたしは信じています。」という箇所である。

  上記について、分からなかったのは、

  まず、「社会的な意味での言葉の正確性があり、その正確性に収まるものと収まりきらないものごと、とに分かれている」という発想。

   次に、「言葉では正確に表せないことを、少し形の違う言葉・・・」という発想。

   この一連に用いられている「言葉」はグラデーションのように作者の中では色分けされているが、読み手の私には統一感に欠け、理解がまだ出来ない状態にある。

  どうしてここに疑問符がついたかと言えば、「そう棲み分ければ、日常生活は楽になる」が、「日常生活において、なるべく、自身が最も大事にしたい『言葉』や『言葉遣い』、『文体』を、消さずに生きて行く」ことで、自分の言葉や自分の表現が、自然淘汰されて残っていくのではないか、と常々、私は思っていたからである。

  つまり、表現する言葉と社会生活における言葉を、二か国語のように、最初から分けて考えてしまって良いのか、ということである。私自身は、そこを如何に擦り合わせるか、割り切れない日々を過ごしている。

  どちらがよいかに関して、絶対の正解は無い。自分と言葉の関係性、自分の発する言葉は、自分自身で加筆修正するしかない。価値観の異なる言葉遣いをする人もいるであろう。そうした機会に、自分の発する言葉を試行錯誤しながら、相手に届くように、何度も突破していく中で、自然と自身にとって真価ある言葉と言葉遣いが顕れてくるのだと、私は思っている。

   昨今は、短歌は、「私記録性」、「一人称文学」という前提からズレが生じ、「作者」と「作中人物」が異なる事を前提に書評が書かれることもある。

   私は、そのどちらかに立ち位置を決めずに、両立して作歌していくことは可能なのではないかと、最近、思い始めている。ただし、それは、日常生活で発する言葉や言葉の選択を意識し、自分の表現(する言葉)と照らし合わせて、自分の言葉を磨き続けている限り、である。つまり、表現する言葉を日常生活になるべくは浸透させていく試みをもってしてのことである。時間も掛かるし、生真面目だとも言われる。その、「意味が分からない」と友達に言われるぎりぎりの所まで、私は、言葉を、生活の中で、ストライクゾーンに投げ込み続けている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「感性を鍛える」(斎藤政夫)

詩でも良い。短歌でもいい。いい作品を作りたい。そう願いながら、もう何年も過ごしてきた……、怠惰に。  

 たとえば、こんな歌を作りたい。 

   青葦の茎をうつせる水明かり風過ぐるときましてかがよふ  春日井健

 漢字を使わないと伝えられないような歌である。漢字がもろに効いている。 

 

 感動には直接の感動と間接的(詩歌や絵画、報道から受けるような受動的な)感動があって、素材の違いによって感動の強度に差がでる。なぜなら、間接的な感動は作品を書いた、描いた、あるいは、作った人の表現を受けての感情であるから、直接的な生の感じとは違い、距離がでてしまう。それは、作者のフィルターを通したものを受けての感情であるので、感情の揺れの幅は作者には及ばない。 

  

 間接的な感動の例として、絵画から受けたものを二つ挙げ、この感動を歌にしてみたことがある。 

  森本草介は写実絵画の画家だ。彼の裸体画に感動を覚えた。(「写実絵画の新世紀 ホキ美術館」)の画集から。 

   なめらかな背は脱衣せり恥じらいの眩くまでにエロスこぼせり 

  アントワーヌ・シャントルイユはバルビゾン派と称される画家である。この絵は「そごう美術館」に展示された。 

   アントワーヌ・シャントルイユ描(か)く黄昏は日の落つるほど安息ぞ満つ 

 この歌は横浜歌会に提出したときのものだが、評価はほぼゼロ点に近かった。一行詩では絵などの感想を表現するのは難しい。以降、絵や写真を見た時の感動は、歌にするのは止めた。 

 

 直接的であれ、間接的であれ、「いい歌」を作れない根本の理由は二つあると思う。一つは表現の技巧上の問題であり、もう一つは感性(外界からの刺激を受け止める受容側)の問題である。技巧上の問題は「いい作品」に数多く触れることで解決できそうだ。これは努力や訓練で何とかなるはずだ。だが、感性の問題は簡単ではない。訓練しようがないからだ。 

 感性力を上げる方法は簡単ではなさそうだけれども、解はありそうに思える。感情は外界の刺激がもとになっているので、刺激をどう受け取るかによって、プロと素人に差が出ると思う。プロは、よく知られているように、彼らの育ちを知ると、彼らは少年・少女期にその芽生えを持っていることが分かる。彼らはスタート地点から違っている。だからといって、嘆いたりしないで、この課題に取り組んでみたい。感性力を磨くのだ。外界である自然や社会を真っすぐに、突っ込んで迫ればよいのでないか。自然をぼうっと見ないで、社会の出来事をよそ事としてしないで、心を寄せて迫ることがよいと思う。 

 

 話を戻すが、間接の歌には、もっとも難しい社会詠で、それにあたる歌として阿木津さんの歌があるので示す。 

   アパートに餓死の骨あり散乱す子と母とまた病みたるものと 阿木津英 

 

 社会詠については思うところがあるので、別の稿で述べたい。  

 

            f:id:Karikomu2018:20211013100308j:plain 

        

               f:id:Karikomu2018:20211013100333j:plain

 

 

本日の一首 (改)ー 佐藤佐太郎

昼ごろより時の感じ既に無くなりて樹立(こだち)のなかに歩みをとどむ p87

おのづから心つかるれ日曜の午後の時間をもてあましつつ p89

座布団を廊下にしきて暑き日のしましを凌ぐ声もたてなく p99

ともしさも馴れゆくらしきこのごろや夕暮れし部屋われは掃きつつ p94

   佐藤佐太郎 『佐藤佐太郎全歌集』(2021)現代短歌社 

 

 とある人からとある時に、「あなた(関口)、歌が慰めになっていませんか?読んでいて疲れます」と言われたことがある。

駄々広い八畳の自室に独りきり何のために生まれて来たのか

夕暮れの部屋翳りゆき堪えられず早く雨戸を立てる冬の日

 上記の歌(作者=関口)についてであった。私は、文学というものは慰めであって良いと思っている。ただし、作者は作品に甘えてはならないとも「八雁」で学んだ。書くことはカタルシスであるとも思う。

 その、とある人を含め、佐藤佐太郎氏の歌が好きだという方が多いので、『歩道』を読んだ。上記四首は、破調もあり、内容としてはごく普通の日常を詠っている。それでも、私も心に石ころが投げ込まれた様な、ゴツンと確かに胸内に小音がするような、作品の頑健さを感じた。さて、である。分かり切ったことであるのかは知らないが、私は、佐太郎は「(歌を)作る」人だったと見受けする。そして、それは、「古語」に精通しているからこそ、勝負強くなるのであって、現代の口語で佐藤佐太郎氏を追いかけて同じ作り方をしたら、火傷するのではないかと、結論付けた。私自身は、佐太郎の歌に納得した上で、一首一首が、小話のような愉しみを覚えた。それは、佐太郎が自作と自身との距離をとって「作品」を作っていたからであろう。

 日常を詠う。何の為に詠う?なぜ?、それは、今日を、今日の自分を、残したいからではないだろうか?何かひとつでも形あるものを、と今日を記す。記さなければ消えていく今日を残す為の、努力。それこそ、自分の一日を意味あるものに昇華する、歌い手にとって慰めの行為となるのではあるまいか。そして、そこから立ち昇って来た「作品」に、「慰め」を越えた、作者と読者の「共感」があれば、それが文学の力だと、私は信じ、佐藤佐太郎氏の歌に「共感」した。

 内容が健康的であれば、歌に甘えてはいない、というのは至極表面的な捉え方である。「内容」と「歌い方」の両者に、それは出でて見えて来る。どんなに健全なことを、どんなにそつなく歌っても、自分にとって意味のある事が読者へ届かなければ、それは、共感に及ばない独りよがりな甘えた歌になってしまう。

 私は、喜怒哀楽を感じ取って貰える歌を、詠える様になりたい。「気持ち」を伝えたい。「共感」することで孤独が薄らぐ様な、そういった歌い手になりたい。その「志」しか、短歌を作り続けていかれる理由が、他に本当に見つからないのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

本日の一首 ー 佐藤佐太郎

昼ごろより時の感じ既に無くなりて樹立(こだち)のなかに歩みをとどむ p87

おのづから心つかるれ日曜の午後の時間をもてあましつつ p89

座布団を廊下にしきて暑き日のしましを凌ぐ声もたてなく p99

ともしさも馴れゆくらしきこのごろや夕暮れし部屋われは掃きつつ p94

   佐藤佐太郎 『佐藤佐太郎全歌集』(2021)現代短歌社 

 

 とある人からとある時に、「あなた(関口)、歌が慰めになっていませんか?読んでいて疲れます」と言われたことがある。

駄々広い八畳の自室に独りきり何のために生まれて来たのか

夕暮れの部屋翳りゆき堪えられず早く雨戸を立てる冬の日

 上記の歌(作者=関口)についてであった。私は、文学というものは慰めであって良いと思っている。ただし、作者は作品に甘えてはならないとも「八雁」で学んだ。書くことはカタルシスであるとも思う。

 その、とある人を含め、佐藤佐太郎氏の歌が好きだという方が多いので、『歩道』を読んだ感想を述べたい。上記四首は、破調もあり、内容としてはごく普通の日常を詠っている。それでも、私も心に石ころが投げ込まれた様な、ゴツンと小音がするような、作品毎の頑健さを感じた。さて、である。分かり切ったことであるのか知らないが、私は、佐太郎は「(歌を)作る」人だったと見受けする。そして、それは、「古語」に精通しているからこそ、勝負強くなるのであって、現代の口語で佐藤佐太郎氏を追いかけて同じ作り方をしたら、火傷するのではないかと、率直に、思った。私自身は、納得はもちろんであるが、一首、一首が、小話のような愉しみを覚える。それは、佐太郎が自作と自身との距離をとって「作品」を作っていたからであろう。

 日常を詠う。何の為に詠う?なぜ?、それは、今日を、今日の自分を、残したいからではないだろうか?何かひとつでも形あるものを、と今日を記す。記さなければ消えていく今日を残す為の、努力。それこそ、自分の一日を意味あるものに昇華する、作者の慰めではあるまいか。そして、そこから上がって来る「作品」に、「慰め」を越えた、作者と読者の、「共感」があれば、それが良いと、私は思っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

本日の一首ー中西敏子 第二歌集 『呼子』

この道と決めて来れど迷ひたり蜜を流したやうな春昼

連なりてとんぼは夕日へ入りゆけり呼びもどすもの何もなき空

    『 呼子』中西敏子 ながらみ書房 (2021) p20 p27

 中西敏子氏の歌には、邪念が無い。こうしたらもっと上手くなる、こうしたらもっと万人受けがする、ここを詠えば歌になる、こうやって読者に伝わって欲しい、等の、そうした「邪な必死さ」が無いのである。かと言って、柔らかく、優しく、穏やか、とも異なる、歌の立ち姿に弱弱しさは無い。読後、ああ素晴らしいなと、羨望もやっかみも無く、心に沁みる。それでいて、いつも、知らず知らずのうちに、生き方や人生に繋がる、教訓の様な、道しるべの様な、何かが、歌に、在る。これ程、優れた歌集ながら「押し付けがましさ」など、皆無なのだ。歌を見よ、どれだけの自立をした心の上に、詠われているか。どれだけの安定した地を固めた上に、歌を作っているのか。そこに居続ける時間と場所と覚悟。それすらも見えない、人として問われる、天に問い得る、歌である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本日の一首ー改訂版・短歌史年表の完成

西暦629年から、2021年までの「『改訂版』短歌史年表」の作成が終わりました。

お知らせ頂ければ、添付ファイルにてお送り致します。

 

f:id:Karikomu2018:20210924173932p:plain

f:id:Karikomu2018:20210924173947p:plain

f:id:Karikomu2018:20210924173959p:plain

<引用・参考文献>

『現代短歌全集』第一巻より第十七巻(筑摩書房

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本日の一首ー野上卓

皿の上にパセリ一片残されて窓の向こうは秋雨の街

    『 チェーホフの台詞』野上卓 本阿弥書店 (2021)

逐語訳:皿の上にパセリのひとかけらが残されている、そして、窓の向こうに秋雨の降る街がある。

 

この歌を選歌するか否か。私は迷い、結局、選歌した。「皿の上にパセリ一片残されて」の上の句。誰もが歌いたくなる素材、「食後に残されたパセリ」。下の句は合わせ技が試される要所である。期待して下の句を待つと、「窓の向こう」という、これも又、やや常套句めいた視点の動きがあり、結句に「秋雨の街」と、ここも、やや無難に詠んだ感がある。上の句と下の句の組み合わせであれば、ちぐはぐさが面白いという人も居るだろう。私が最終的に良いと思えたのは、「パセリが残されている」という受身で表現し、窓の向こうを見る作者が、それに依って、能動的に窓の向こうを見た、と解釈したからである。つまり、作者は自分の視点の変化、その時の心境を詠う、その脇役として、誰もが詠みたくなる「残されたパセリ」を扱うことが出来たと、私は思った。おそらくは、期待する程の虚無感は無いだろう、それよりも、歌として作品として成り立っているか、そういう意味で、この歌は、歌い方の巧妙さ、どこにも出て来ない、作者=我を、存在せしめた歌として、纏まりのある、興味深い一首であった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・