第三回 与謝野鉄幹 『紫』
〈選歌十首〉
雲を見ず生駒葛城(いこまかつらぎ)ただ青きこの日になにとか人を咀(のろ)はむ
野のゆふべ花つむわれに歌強ひてただ『紫』と御(み)名つげましぬ
五つとせむつまじかりし友のわかれ城のひがしに春の雪踏む
見かはしてふたり伏目(ふしめ)の人わかし梅にゆづれる車と車
屠蘇すこしすぎぬと云ひてわがかけし羽織のしたの人うつくしき
うまれながら林檎このまぬ君と聞きて今得ん恋の末あやぶみぬ
いくたびかかけては袖のぬれにけむおぼろの清水ひとわすれ水
人の国もとりてきぬべきてのひらに露おく朝の花をつむかな
松かげにみやこの人の名をかけばさざ波よせてやがて消えにけり
われならばその片頬をも打つべきに泣きてやみたる人のやさしさ
〈感想〉
与謝野鉄幹(1873~1935)の28歳時の歌集。
とにかく、「恋」という文字が頻繁に歌に使われている。その歌のほとんどは、良くない、と思った。
一方で、リフレインを使っている歌が数首あり、そのことに嬉しさを覚えた。
正直な感想として、与謝野鉄幹の歌が、どうしても好きになれない。本来の歌の上手さを磨くよりも、その時々の感情や感傷を歌に託しており、スタイルが甘えている。「ねえ、分かってよ」というような、べたつきがある。加えて、弱い自我を演出しながら、歌の上手い自分の自信も、同時に主張したい、自己。この自我は、本当は、弱いのだろうか強いのだろうか。迷うところである。
鉄幹是なら子規非なり、子規是ならば鉄幹非なり。 正岡子規『墨汁一滴』
と正岡子規が述べていることも初めて知った。
しかし、本来の歌の上手さは、随所に感じられ、その点に、嫉妬心を抱いた。