第十二回 相馬御風 『睡蓮』
相馬御風 『睡蓮』(明治38年刊行)より選歌(全348首)
〈選歌18首〉
心なく口くちにあてたる花びらに命いのちおぼゆる春のくれかた
天あめさしてなげつる花種たねの根はもたずかへりてはまたさびし野の末
君が家やへただ一すじのみちなれど心うかりきかのうしろ姿
ながれよる白き藻の花ものはなに美よき名つけてはまた流しやる
おもだかの池見て立てる夕庭を蝙蝠君が肩よりわれに
何をかもゆめみがほなる御仏みほとけの瓔珞えうらくゆりてふく青あらし
わが笞しもと人にとらせてうたせてぞ笑ゑまむはむしろやすき今なり
おのづから病みてもだへて得し光いつより歌の名はそはりけむ
啼く鳥になくよしきける賢人けんじんにわれらの歌は秘めしめたまへに
いかなればつめたき石に名はきざむさかしらなれや人のたはぶれ
こざかしきのろひもなにか詩しの神の御手みてさぐる子よ世におろかなれ
病みて泣きておもはず合す掌たなごころ黙示もくし無限むげんのそれか秋の声
闇ぬうてはかなう消えしうす光ふたたび胸によびもどすごと
昨日まで泣きしわれともおもほえず舞ふ袖かろきあめの庭かな
今にしておもへばさらにうつくしし君ありてこそ神も恋ひしか
しるさむにわが名はづかし神の帖ちやうダンテの御名みなも見出でつる今
ぬぐはれてなほものたらぬ神の膝涙はとはにすて得ぬ子なり
蛾がのむれが天の灯したふあこがれとわれら世人よびとになにつたへてむ
〈感想〉
相馬御風(そうまぎょふう) 明治16年~昭和25年没(67歳)
本名:昌治(しょうじ)
新潟県出身
中学の頃より作歌を志し、早稲田大学に進学。在学中から「白百合」を創刊(明治40年まで)。
卒業後は、島村抱月主宰の「早稲田文学」の記者になる。後に、早稲田大学の校歌を作詞した。「良寛」の研究も行っていた。
どうしても苦手意識を感じる、浪漫派。しかし、選歌をしてタイピングすると、その拒否感はすっと消える。なぜだろう。自分で自分に問いかける。どうして、浪漫派が苦手なのか。自分のこの感覚は、他者へ説明できるほどしっかりしたものなのか。歌集を読んでいる最中に、心に、嫌味な愚痴が不意に湧いた。「浪漫派はインテリが多い」。そこから、自分(筆者)が、浪漫派のルーツを知らない、なぜ、この時代に、この様な歌が一派を成すほど流行ったのかを根本的に分かっていない、流行った理由も知らない、一作者(相馬御風)が世情の反映を受けて、この様な歌を詠っていることも、自分(筆者)の理解の中に入っていない、つまり、「浪漫派を知らない」ことに気付いた。そして、それが苦手意識の要因の大きな一つであると、今、痛感している。