Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

第十五回 平野万里 『わかき日』

平野万里(ひらのばんり) 『わかき日』(明治40年刊行)より選歌(全414首)

〈選歌11首〉
眼めとづれば心を占しめしいつはりの落ちし、かなしき獄ひとやの見ゆる。
ゆめの海、水泡みなわや凝れる、うるはしき少女をとめぞしのぶ、花藻のかげに。
おなじくは焼きても消けたむ、わが心、炎あれども人にとられて。
相見ればなべてうつくし、よろこばし、語ごあるもうれし、黙もだせるもよし。
一月や、障子を引きつ、君とあるここには寒き風入れぬこと。
春の夜よや、香かうをもしめてさく花に似ると侍はべれる人の妻かな。
君は真珠しんじゆ、いつかれ人びとの麗うるはしう海におはさむ、花藻のなかに。
男とはまことの枝にいつはりの花を飾るをよろこぶものぞ。
ふたり入りぬ、ここに世ありと、夏の日のいといとしげる梧桐ごとうのかげに。
二十四時じ、時計の針はりや我が思ひ、愛憎あいぞうといふ昼夜をめぐる。
かしましき鳥、天地あめつちを暗くらうして我が魂たましひを食はむと寄せぬる。

〈感想〉
  平野万里(明治18年~昭和22年)  
   埼玉県出身
   明治34年 中学校卒業の年に新詩社に入社。
   明治41年 愛人?妻? 玉野花子(新詩社同人・明治15年~41年)逝去 

率直な感想として、ほとんどの歌に「君」という語が含まれている。途中で力尽きて、「君」が入っていない歌を、意識的に選歌した。この様な選歌が良い行いではないと分かっているが、読んでも読んでも、同じモチーフが詠われていて、気持ちは分かるが、読み手として負担を感じた。それから、句読点が気になった。当時は、この様なチャレンジングは、どう受け止められていたのだろうか。少なくとも、新詩社の中では許されていたのだろう。句読点を使用している故に、短歌というよりはポエムの様に感じられた。作者にとっては、歌を作ること=カタルシスであったのかと思う。