Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

第二十回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(3)

第三回 研究発表 (2016.12.27)
前川佐美雄 第1歌集『植物祭』(575首)より選歌42首

〈選歌四十二首〉

かなしみを締しめあげることに人間のちからを盡つくして夜よるもねむれず

人間の世にうまれたる我なればかなしみはそつとしておくものなり

このうへもなき行おこなひのただしさはいつか空にゆきて星となりたる

百年このかたひと殺しなきわが村が何んで自慢になるとおもへる

のろはしと世をいきどほる悲しさはことさら母にやさしくぞなる

穢むさきものはみな押入につめこんで室のまんなかに花瓶を持ち出す

天氣ぞといふひとこゑに飛び起きて洗面に行くぞたのしきなり

すつぽりと着物着かへて何處どことなくこの秋晴に出でて行かましを

あかあかと野に落つる夕日わが門かどになにをのこせるわが今日も立つ

春の空に雲うかびゐるまひるなり家にかへりてねむらむとおもふ

街をあるきふいとわびしくなりし顏そのままかへりきて鏡にうつす

まつ暗な壁にむかひていまもあれどこの壁はつひに眼をあいてくれぬ

山みちにこんなさびしい顏をして夏草のあをに照らされてゐる

ふらふらとうちたふれたる我をめぐり六月の野のくろい蝶のむれ

美しい人間の夢をつかみそこねしよぼらんとして掌てを垂れるなり

遠くの方へ日はずんずんと過ぎ行きぬすぎし日ごろは幸さいはひなりき

遠い山にかへらされ行くゆふぐれの有象無象うざうむざうのひとりかわれも

パラソルを傾けしとき碧ぞらを雲ながれをればふとほほゑみぬ

弛ゆるみきつたわれのこころのすべなさに不足な顏して街あるきゐ

ふらふらと夜なかの街に出でて來て晝歩いた道をあゆみつづくる

何んでかう深夜しんやの街はきれいかと電車十字路に立つて見てゐる

平凡な散歩より今宵もかへりきて何かの蓄積におどろいて坐る

薔薇の花をテエブルの上に活けておき三日ばかりを留守にするつもり

あのひとに贈るべく買ひし薔薇なれどそのままわれに愛されてあり

ふつかほどわれに見られし草花は今日から君の室へやに置かるる

ひとり室に不動の姿勢をとりたるが少しおどけてありし如し

この虫も永遠とかいふところまで行つちまひたさうに這ひ急ぎをる

生きものでも見てをれば心が和なだむかと今日はとなりの猫を借りて來る

うしほなしよろこび心に充ちきたるこの一瞬に死なむとぞおもふ

胸むなべまで大地の暗さがのびて來ていまこそわれは泣くに泣かれぬ

遠くよりすねて來る人の心持すすねねばならぬ春を見おくる

醉ひしれて酒場のなかにねむりゐる地獄どもらに夜の明けずあれ

すはだかの人間どもがあそびをるあの世をみたか見に連れてやる

生なまじろいわが足のうらを見てゐるとあの蛇のやうに意地惡くなる

親切を言はれてはすぐほろりとなるかかる氣持はいま野に捨てる

如才なくされてゐることは嬉しいがそれだけにまた寂しくもある

行く先はどのやうになるかは知らないが再びこんな夢はつくるな

腐りはてた汝のはらわたつかみ出し汝の顏にぬたくるべきなり

うづだかく過去の日記帳をつみかさね魂たまひえきつてうちすわる

あるべきところにちやんとある家具は動かしがたくなつて見つめる

いまになり恐れてにぐる逃げぎはのその一言ひとことが何んてやさしき

君のその胸まで暗くのびてをるわが影を見よ見ぬとは言わさぬ

 

〈疑問点・その他〉

〝スタイリッシュ″である。(下品・自虐・虚無感を詠っているが、不快・暗さ・傲慢さを感じない)

歌集の歌の並びがうまくできており、選歌と気になった歌に分けようとした際に、分けることが困難だと感じた。(連作ではないが、一つの題に対する、様々な視点と対象への気持ちの移り変わりが、時系列的に組まれている?)

『春の日』のような上品さはない。(歌の変化)

2016年現代に通じる残酷さ、悲惨さがある。(ex、「退屈」の章 p146)

てにをは・・・字余りになっても付けていることが多い。

恋愛関係・希死念慮・鏡・香水・薔薇

抽象的な言葉の用い方

題材のふり幅が大きい。

 

〈次回の更新について〉
 今回は、選歌のみに終わってしまいましたが、次回は、『前川佐美雄』三枝昂之著(五柳書院・1993)を読み、人物像について、まとめます。