Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

第二十八回 個人研究ー矢沢歌子(1)

長生きを誰も怪しまず車椅子連ねて寺に初詣でする


長生きを誰も怪しまず車椅子連ねて寺に初詣でする 矢沢歌子

〔短歌研究・二〇一六年三月号・特集:現代代表女性歌人作品集より〕

最初に読んだときは、(周りの人が、長生きをしている人を怪しまずに)と取ったが、作者を含め、(長生きをしている本人たちが、誰も長生きを怪しまず、)と取るのが正しいだろうか。老人会の集いだろうか、もしくは「車椅子連ねて」なので老人ホームの入居者か(今時そこまでしてくれるのだろうか)、ともかく車椅子の老人が何人かで初詣でに行き、作者を含め誰も長生きを当たり前として、怪しむ者はいないと感じた。

長生きを怪しむ、という発想が感覚としても言葉としても私にはなかった。二句で平易に、しかし鋭く作者の思うところが示されている。「疑わず」ではなく「怪しまず」とされているのが、理屈ではなく日常の感覚として取れる。

この他にも同特集の中で、老いの歌として印象に残ったものを上げる。

戦後七十年とう 何時しかに自らの老いに目覚めんとする  大野いくよ

ティファールの湯を太腿に零したり ああ、と思ひぬ。ぼんやり、ああ、と                  田中槐

目を閉じて涙の道と思うなり目尻の皴のこのごろ深く  俵万智
一首目、老いの目覚めという発想。二首目は明らかな老いの歌ではないが、衰える感覚を読んだものと取った。三首目、皴を感じることができるようになるのか。