Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

第四十四回 『黄昏に』土岐哀果

『黄昏に』土岐哀果(明治45年)
<選歌17首>(全352首より)

 

 このー小著の一冊をとつて、

  友、石川啄木の卓上におく。

 

もの思ひつつ、街路を歩めば、

行人の顔の、さもしさよ。

 ぺつと唾する。

 

働くために生けるにやあらむ、

生くるために働けるにや、

 わからなくなれり。

 

髪を長く延ばしてみんか、

 とも思へり。

世のいやになる心の、いとしさよ。

 

非常なる力がほしとおもふかな。

わが名すら忘れんとせり、

 そと呼びてみる。

 

大ごゑに、いきなり呼ぶなかれ。

つかれたる心は、いとし、

 つひえんとする。

 

世に、かかる嘘さへ、

 いふものか。

その人の顔を、ぢつと見つめし。

 

この国の男も女も、さもしげに、

黄いろき顔をして、

 冬をむかへぬ。

 

死なんとは、おもはずになりね。

生きんとも、

 さまで思わずなりにけるかな。

 

急に腹の減りしに愕き、

床を出で、顔を洗へり。

 朝のすこやかさ。

 

わが家のだれに向ひても、

言ふことが無くなりぬ、―やがて、

 ふいと外へ出づ。

 

わが友の、寝臺(ねだい)の下の、

 鞄より、

国禁の書を借りてゆくかな。

 

うれし、うれし、うれし、

 心、このごろ、

すべてのものを愛するをうる。

 

やはらかに、

夜着の白さに浮びきし、

 そのたそがれの合歓の花かな。

 

毎日、あさ、電車に乗りて、おもふには、

 車掌より、われ、

 すこしは、よきかな。

 

むしやくしやして、

急にすつかり片づけし、

 わが六畳の、秋の夜かな。

 

わが力を、わが心を、

すべてかたむけて、働きしことなし。

 一日も無し。

 

哀しきは、

職業のある、その事を幸福とする。

 いまの、心かな。


『黄昏に』について
第二歌集。作者27歳時。東京都出身。昭和55年に歿(95歳)。感想として、これは愚痴である。愚痴ではあるが、若さ故の叫びでもある。愚痴は歌にはならない。しかし、土岐哀果は、やがて土岐善麿として、生涯を文学に捧げた。その覚悟を思えば、この歌集を特に否定する必要はないと思えた。

 

【参考・引用文献】 『現代短歌全集』第二巻  筑摩書房(1980)