第四十九回 『日記の端より』尾上柴舟
『日記の端より』尾上柴舟(大正二年)
<選歌13首>(全577首より)
温泉(ゆ)の烟凝りて流るゝ玻璃の戸に山の椿の一花ぞ濃き
風わたる梢を見ても胸をどるまこと山にて恋しきは海
動きては威をば損ずといひがほに立ちたる山も一言は云へ
新しき疲れの中に昨日住み今日住み得るを嬉しとぞ思ふ
争ひて生ひしむかしの悲しみを山の木どもよ物がたりせよ
花草の淡き香のする故郷の月夜にむかふ蔵の白壁
動物の見せ物のごと午後の風わが見る前に海を怒らす
音だにも高からぬ地は疲れたる心をおくにものたらずあり
静かなる山の湖(うみ)には安んぜずひたぶるに行く水のあはれさ
日を経たる林檎の如き柔らかさ今日の心のこの柔らかさ
西天に経をもとめにゆくこゝち冬の二階に書(ふみ)とりにゆく
置きかへばよき事もやとわが机窓の左にうつしてもみつ
薄からば薄きまゝにてさせよかし光といふはなつかしきもの
『日記の端より』について
第4歌集。作者37歳時。岡山県出身。昭和32年に歿(81歳)。第一歌集『銀鈴』は明治37年、作者28歳時に刊行。第一歌集『銀鈴』を読んだ時ほどの衝撃はなかったが、尾上柴舟の歌には、いつも、吸収したい何かがある。言葉の遣い方や、ここにこの表現を用いてくるのか、という、ハッとさせられるが物静かな工夫や技巧である。選歌はなるべくその表現力が伝わりやすいと思われるものを選んだ。
【参考・引用文献】 『現代短歌全集』第二巻 筑摩書房(1980)