第五十四回 『夏より秋へ』與謝野晶子
『夏より秋へ』與謝野晶子(大正三年)
<選歌十二首>(全 767 首より)
琴(こと)の音(ね)に巨鐘(きよしよう)のおとのうちまじるこの怪(あや)しさも胸(むね)のひびきぞ
人(ひと)の世(よ)の掟(おきて)の上(うへ)のよきこともはたそれならぬよきこともせん
くろ髪(かみ)の女(をんな)の族(ぞう)は疎(うと)けれどわが師(し)となりぬ人(ひと)うらやむ時(とき)
人人(ひとびと)はわが話(はなし)にてしづまりぬ秋は斯(か)かりと思(おも)ふ夜(よる)かな
わが閨(ねや)にやがて丁子(ちゆうじ)の匂(にほ)ふ日(ひ)の来(きた)らむなどと他(た)をおもへども
外(そと)にまた似(に)るもの無(な)しと思(おも)ひたる高(たか)き愁(うれひ)にやや近(ちか)し秋(あき)
廊(らう)などのあまり長(なが)きを歩(あゆ)むとき尼(あま)のここちす春のくれかた
自(みづか)らをめでざるまでに到(いた)りぬとわれ見(み)え透(す)きしいつはりを云(い)ふ
まぼろしに目(め)に見(み)ゆること少(すく)しづつ異(ことな)りゆくも哀(あは)れなるかな
夕(ゆふ)ぐれの光(ひかり)に透(す)きて動(うご)く人(ひと)高楼(たかどの)にあり水色(みづいろ)を著(き)る
南風(みなみかぜ)吹(ふ)きあほる日(ひ)はすさまじき老女(らうぢよ)の手(て)見(み)ゆ春(はる)の日(ひ)ながら
夏(なつ)来(く)ればすべて目(め)を開(あ)く鏡(かがみ)見(み)て人(ひと)に勝(まさ)るとするもこれより
『夏より秋へ』について
第十一歌集。作者50歳時。大阪府堺市出身。明治11年生、昭和17年に歿(63歳)。
【参考・引用文献】 『現代短歌全集』第三巻 筑摩書房(1980)