第五十八回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(15)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ①
第五十八回 ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ①
1、誕生から『植物祭』まで
1903年 明治36年 2月5日 奈良県 忍海(おしみ)にて、前川佐美雄誕生
大正10年 4月 「心の花」誌上デビュー(18歳)
大正11年 上京
スムの新潮派に注目するようになる。
大正14年 3月 帰京
1926年 大正15年 9月 再上京(23歳)
大正15年 12月/昭和元年 短歌状況は革新二派に分かれていた。
①新興短歌
文語×口語
定型×自由律
②プロレタリア短歌(のちに定型離脱の流れ
になる)
(アララギ派が仕掛けた論争、この時期、
アララギ派はこうした論争を他にも仕掛
けている)
既成への否定意思からプロレタリアとモダニズム
の両方に感応する。
昭和2年 11月 プロレタリア短歌の影響を受ける。
短歌に全力をあげる。
口語志向の文語定型派という特異な位置を選ぶ。
1930年 昭和5年 7月 処女歌集『植物祭』発行(27歳)
表紙は古賀春江。
昭和5年 10月 「心の花」誌上で『植物祭』の特集が組まれる。
誌上で、「心の花」の代表選手扱いをされる。
1943年 昭和18年 第五歌集『春の日』(40歳)
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〈要約〉
前川佐美雄の処女歌集『植物祭』には、自身の記により、「大正15年9月以前の作品を割愛している」という旨が記されている。その理由として、「(大正15年9月以前の歌は)古典派の悪趣味にひっかかっている」からだとしている。
この大正15年9月という日付けは、佐美雄の再上京の時期と重なっている。そして、割愛した大正15年9月以前の歌は、後に『春の日』として出版され、さらには、『春の日』の巻末には『春の日以前』という章立てもある。
それらを整理すると、
作歌時期は、
大正10年4月~大正11年8月 『春の日以前』
大正11年9月~大正15年9月 『春の日』
大正15年10月~ 『植物祭』
であり、
出版時期は、
昭和5年7月 ~ 『植物祭』
昭和18年 『春の日』(『春の日以前』を含む)
となる。
佐美雄が、再上京した大正15年9月以前・以降とに区切りをつけたのは、古典派から現代派へと変わる意思、すなわち、『植物祭』の意義を強調するためであり、故に、割愛説をわざわざ付けたのである。
では、なぜその様な意思の強調が必要だったのか。大正15年9月に再上京(23歳)をした佐美雄を取り巻く環境を述べる。
そもそも、大正時代が15年間で終わることは予見できることではない。にも関わらず、大正15年(昭和元年)という年の歌壇は、まるで大正期が終わり新しい時代の来ることを予見していたかのような事象が起こっている。「(大正時代のアララギ派を牽引してきた)島木赤彦の死」(大正15年3月)、「雑誌『改造』7月号における『短歌は滅亡せざるか』という特集」(大正15年7月)、「新短歌協会の結成」(昭和2年1月)である。
佐美雄が再上京した三ヶ月後の12月25日から始まる昭和の短歌状況について、木俣修は「昭和短歌史」で次のように述べている。
昭和初頭(すくなくとも昭和十年頃まで)の文壇の様相は、互いに他の二つを否定し合う三派、「既成作家」・「プロレタリア作家」・「新興芸術派作家」が鼎立し抗争する姿にて捉えなければならない。
佐美雄の再上京は経済的に厳しいものだった、実家は没落時であり、佐美雄は跡取り息子だった。それを押し切り、文学的な決意を持って再上京したのである。
そうした決意を持った佐美雄の前にある景色は、「文語定型守持の『アララギ』が主導する既成歌人」対、それに挑みその勢力を打破しようとするために発足された口語歌運動からでた「プロレタリア歌人」と「モダニズム歌人」の三派の鼎立という姿だった。
・・・・・・・・・②に続く
【参考・引用文献】
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)