第五十九回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(16)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ②
第五十九回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(16)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ②
1、誕生から『植物祭』までー②
再上京した佐美雄は、口語歌運動からでた「プロレタリア歌人」と「モダニズム歌人」、いわゆる革新派の新興短歌、そこからまた広がる多様な分岐点や分派によるせめぎ合いの中に入っていき、たちまちその渦中の人となったわけである。
一方、アララギ派は衰退していく焦りから、昭和のはじめに三度の模倣論争を行っている状況であった。
『アララギ』 対 『国民文学』
佐美雄は、昭和2年1月の『アララギ』における土屋文明の批判に対し、『心の花』誌上の「前月歌壇評」を担当して、旧態依然の歌壇作品を批判し、一年がかりの論争を続けた。
ここには、『心の花』で目立つ前川佐美雄の歌を批判すれば、『心の花』そのものの批評水準をも批判することになるという計算を、土屋文明がしていたと考えられる。
佐美雄も準備委員として坪野哲久や石榑茂などと働き、10月に第一回大会が行われる。しかし、機関誌の発行時期をめぐり、意見が対立。12月には連盟は解散した。
この時、『植物祭』は新興歌人連盟叢書のひとつとして企画されていたが見送られた。
昭和4年 3月 新興歌人連盟から枝分かれした、石榑茂とともに『尖端』を創刊するも、石榑茂の歌壇引退などもあり12月には終刊。『プロレタリア短歌集』の刊行などにも携わるが、12月には「前衛短歌」を脱退した。
後に、この12月の脱退について、『春の日以前』のあとがきで、佐美雄は、「私が後に新興歌人連盟に関係し、プロレタリア短歌などを作ったりしたのは、私自身思想的に何の訓練もなされていなかったからである。(略)ただ、何となく魅力があって、ハイカラに思えたのであるらしい」と説明している。
昭和5年 7月 『植物祭』発行
昭和5年 10月 『心の花』誌上で93頁にわたる『植物祭』の批評特集が組まれる。これは、反写実主義の機運が歌壇にみなぎっている時代だから、ニューウェーブの『心の花』的なものの代表選手を全力で支えるための大特集だといえる。
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その『植物祭』の世界とは、どのようなものであったのか、あるのか。
・・・・・・③に続く。
【参考・引用文献】
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)