第六十二回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(19)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑤
第六十二回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(19)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑤
〇表現の特質
・自己の客体化
・自他の二重性
・自他の交換
・既成への否定意志
今回は、上記の「自己の客体化」についてを要約します。
〈表現の特質ー自己の客体化〉
ほそぼそと漬菜(つけな)嚙(か)みゐるひとり身のわがさびしさは気の毒ならむ
(『植物祭』「孤独の研究」)
おのが歯に胡瓜嚙む音すこやかにおのれ聞きつつひとり昼餉す
( 野村和義 )
例えば、この二首は、独りの食事が歌われていると読めば、誰にでも体験のある孤独なワンシーンであるが、前者(前川佐美雄)は、それだけではない自己批評の目を感じさせ、後者(野村和義)は、あるがままの受容といったものである。この二首の違いは、前者が「気の毒ならむ」という別の観点からの目によって見られている点が異なる。「気の毒ならむ」というのは、わかりやすく場面を設定すると、天井の隅にテレビカメラが設置され、「漬菜を嚙む私の姿をあのカメラから見たら気の毒な姿に見えるのだろうな」という屈折表現、自分の寂しさを他人の目で眺め直す表現の構造に、佐美雄の意図がある。
街をあるきふいとわびしくなりし顏そのままかへりきて鏡にうつす
不快さうでひとと話(はなし)もせぬときのあのわが顏がみたくてならぬ
鏡のそこに罅(ひび)が入るほど鏡にむかひこのわが顏よ笑はしてみたし
(『植物祭』「鏡」)
この一連十一首は〈鏡〉という道具を設定することによって、自分を客観視して批評するというモチーフを露出した作品群といえる。一首目は、わびしくなったときのその顏がみてみたいという心動きが肝なのではなく、わびしくなった顏を客観視したい、別の目で見たいということが肝心事である。鏡はその別の目を与えてくれる道具である。二首目は、〈不快そうな表情をしている私〉、その〈私〉を見たい。構図として、〈不快そうな私〉をもう一人別の〈私〉が見たがっている。三首目は、鏡をはさんで文字通り〈私〉と〈もう一人の私〉が向き合っている図である。しかも、単に鏡に自分が映っていることを歌っているのではない(鏡に映っている自分を歌っているのではない)、こちら側の〈私〉が鏡にひびが入るほど強く見つめれば、その渾身ぶりにほだされて笑い出す存在である、もう一人の私、もう一人の自分の存在がある。
こうした作品における、自分を見るもう一人の別の自分、別の自分の目、といったものを《自己の客体化》と整理しておく。
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次回は、表現の特質における「自他の二重性」を要約します。
【参考・引用文献】
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)