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「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

第六十三回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(20)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑥

第六十三回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(20)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑥

〇表現の特質
  ・自己の客体化
  ・自他の二重性
  ・自他の交換
  ・既成への否定意志
今回は、上記の「自他の二重性」についてを要約します。

〈表現の特質ー自他の二重性〉                   
深夜(しんや)ふと目覚めてみたる鏡の底にまつさをな蛇が身をうねりをる
                      (『植物祭』「忘却せよ」)

 この引用歌をどう読めばよいか。深夜目覚めると鏡に自分の寝姿が映っていて、それは蛇のように身をうねらした姿だった、という受け取り方が自然である。「蛇」を実物と捉えるのは不自然である。また、深夜=暗闇であるから、蛇は(目に見えた)「視覚」的ではなく「感覚」的把握として詠われたと考えられる。つまり、どう読むにせよ心象的な身体感の歌であり、〈私の身体〉は〈私〉によって、〈私ならざる異物〉=〈蛇〉として見つめられている。

 

夜の街でなんの見知らぬ酔ひどれを介抱してゐる我にはわからぬ

寸分もわれとかはらぬ人間がこの世にをらばわれいかにせむ

僕とかれとは何んと親しくありながら互に知らぬかなしさを知る

夜の街でいつか介抱されてゐたあのゑひどれは我かも知れぬ

                      (『植物祭』「人間」) 

 一首目の「我にはわからぬ」は介抱する理由が自分でも分からないが心に引っかかるものがあることを示唆している。この引っかかりがが二首目以下への布石となる。二首目は、「われいかにせむ」と仮定の問いにしながらも、この〈酔ひどれ〉を「寸分もわれとかはらぬ人間」=〈私〉である可能性を示唆している。三首目になると、傍から見て、〈酔ひどれ〉を介抱している〈私〉と〈私〉に介抱されている〈酔ひどれ〉は、親しそうに見えるが当人同士はその関係がよく分からない奇妙さを詠っている。けれども、四首目で、ふり返って考えてみるに、あの〈酔ひどれ〉はやはり〈私〉自分ではなかったかと推論し、オチにしている。

 

 蛇の歌では、〈私〉が〈蛇〉に見立てられている客体化が存在しているが、酔ひどれの歌では、〈私〉と〈酔ひどれ〉は介抱し介抱される存在でありながら次第にその自他がもつれて、自他分離がうまくできない二重の存在であり、それは客体化といったものではなく、むしろ、分裂した二つの自己、その二つの自己が任意に入れ替わる形となっている。これを、《自他の二重性》とする。                                            
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次回は、表現の特質における「自他の交換」を要約します。

【参考・引用文献】 
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)