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「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

第六十五回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(22)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑧

第六十五回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(22)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑧
〇表現の特質
  ・自己の客体化
  ・自他の二重性
  ・自他の交換
  ・既成への否定意志
今回は、上記の「既成への否定意志」についてを要約します。

〈表現の特質ー既成への否定意志〉                   
膳の上のこのいかめしき金頭魚(かながしら)憎くしなりて目玉ほりやる

なにゆゑに室(へや)は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まはす

四角なる室のすみずみの暗がりを恐るるやまひまるき室をつくれ

丸き家三角の家などの入りまじるむちやくちやの世が今に来るべし

晴着きて夜ふけの街に出でてをる我のさびしさは誰も知るまじ                 
                       (『植物祭』)
 一首目、「憎くしなりて」はただ単純に金頭魚に触発されると考えると、それはいささか過剰な反応である。ここでは、先だって〈私〉の方にも何か強い鬱積があり、それが金頭魚に触発されて「目玉ほりやる」という行為となって出た、と受けとる方が自然のように思われる。二首目、三首目、四首目は、現実に対する違和感が歌われているわけだが、それは、直接的な原因がある感情ではない。世の中に対する何か抑え難い、解消しがたいむしゃくしゃが先にあって、四角い家という規範に向かって吐き出されたわけである。五首目は、二首目の「きちがひのやうに室を見まはす」と同じく、誇張され演技臭い、実際の行為ではない、ナンセンスな歌である。こうした〈私〉は、既成への違和感や異質感がまとわりついている。既成価値からの脱落という立位置で、場面が設定されている。これが、佐美雄の世界において重要な点である。すなわち、〈私〉は、折々に別のものに変身するが、その変身の系列は〈変質者〉〈白痴〉〈鬼〉という系列であり、それが示すものは、世間への、世間の尺度への否定意志なのである。                 
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次回は、

〈『植物祭』の史的意義 〉
〇外的な枠組みが本質的な問題ではない大切なのは“方法”である(という主張)。
                                    p105
〇プロレタリア短歌からもモダニズム短歌からも離れる、曲がり角時代の歌集。
                                    p114

を要約します。

【参考・引用文献】 
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)