Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首 — 石川啄木の歌の時代背景

石川啄木の歌の背景>

 

 啄木の歌は簡単にみえて、返って分かりづらい。

 自然主義はいつから始まったのか?

 ・啄木も自然主義を詠った歌人の一人である。

 

M29・M30年 

 正岡子規が生きていた頃、日清戦争があった。子規は従軍している。日清戦争に勝って日本は軽工業を始める(戦勝金を得た為)。絹などの繊維産業である。

 

M37・M38年 

 日露戦争がある。かろうじて勝った。軽工業から重工業、八幡製鉄所など富国強兵のプログラムにのっていく。M34年より八幡製鉄所に火が入る。最初はうまくいかなかったが、10年経ち、日露戦争に勝って戦勝金が入り、日本の経済が一気に上向きになり、M43年までに産業革命が完成した。産業革命が完成したということは、資本主義経済に市場がなっていくことである。(Ex, 大地の子

 鉄というのは非常に重要な産業である。武器製造にも関わりがある。その結果、非常な勢いで都市化が進み、市場経済が始まる。日露戦争後、都市化が進んだことで、悪所、享楽といった、歌舞伎町(吉原?)などの歓楽街が出来て来る。

 

M40年、吉井勇の歌

「われと堕ちおのれと耽り楽欲(げうよく)の巷(ちまた)を出でぬ子となりしかな」

 

M40年 

 戦場に行っていた森鴎外が帰国。

 

M40年3月 

 観潮楼歌会が始まる

 ・根岸派と明星派が離れている状況を一つのものにしたいと、与謝野鉄幹佐佐木信綱や伊佐千夫らを招いて歌会を始める。そこに、若手の、斎藤茂吉北原白秋石川啄木が連れられて来る。M43年6月まで続いた。(興隆したのはM42年)

 

根岸派とは違う、

耽美頽唐派吉井勇、木下杢太郎、北原白秋、石井栢亭(画家)、山本鼎永井荷風(フランスより帰国)で「パンの会」(*パン=酒の神)を隅田川のほとりの西欧料理屋に集まって、異国情緒を交わす会を開いていた。隅田川はフランスのセーヌ川を気取って決まった場所である。歌を論じあい、食を楽しんだ。

 この頃から、「馬酔木」等などの活動していた一派が、10月「阿羅々木」を創刊する。それと入れ違いになるように、「明星」が100号をもって廃刊となった。

これは、与謝野鉄幹の弟子であった、吉井勇北原白秋らが与謝野鉄幹が弟子の歌を盗るなどの評判が立ち、団体で「明星」を脱退したことと、時代が自然主義が興隆する時代で、それに対して、与謝野鉄幹は芸術派として自然主義に反対していた、二つの理由による。

 M39年から一時代を築いた「明星」がこの頃に廃刊となる。そのかわりに、翌年、M42年1月から『スバル』を創刊する。この『スバル』は森鴎外を後見人にして、平野万里、石川啄木など明星に属していた若手が編集を担当し、『スバル』(総合文芸雑誌)を出す。

 この当時の啄木の動向は、何回か上京している、M41年には北海道の新聞社の編集長で羽振りも良かったが、自分の文学への気持ちがまだ残っていた為、5月には上京し、すぐに観潮楼歌会に参加し、吉井勇とほとんど一日おきに会っていた。その時、吉井勇のことを啄木が日記に書いている(*吉井勇が花街に通う事)。そして、秋には吉井勇を見限り、その後、年末には木下杢太郎も見限っている。

 M42年3月に、朝日新聞社に勤務し始める(妻と子の上京)。その間、様々なものを書いている。すでに4月の段階で賃労働者であることへの切迫感を日記に綴る。

 

M42年11月

 「弓町より―食うべき詩」に、そもそも詩人とは何なのか?等、啄木が自分自身へのそれまでの考えを自己否定する思想を述べている。

 

M43年6月

 観潮楼歌会衰退。この頃までに産業革命完成、急激な都市化、資本主義体制化。

 

M43年12月

   『一握の砂』出版。(*M43年に作った作品をもとにしている)

  

<引用・参考文献> 

阿木津英「歌のなかの女たち―近代歌人の求めた耽美頽唐」『売買春と日本文学』東京堂出版 (2002)