Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の散文詩-斉藤政夫 

 はね橋               2020-12-02 | 詩 

  いつもより早く目が覚めた。体中の毛が全部、白く変わっていた。もう、その時なのだ。聞いてはいたが、やはり……、そうか。仕方ない、行かねばなるまい。これで、一切の苦が、体の痛み・こわばり、心の奥の不安・焦燥・沈鬱がことごとく消える。この先、安らぎが待っているのだ。だが、煩悩も消えるのは、ちと、さびしい。いや、やっぱり、わかんねぇな、生きてきたということの意味が。

 きのうの夜、女房が最後のお膳を用意した。俺のお椀には白米のごはんが盛られていた。俺は「白米は、孫に回してやれ」と言いながらお膳を前へ押しやった。もう、食べたいものは何も無い。水が欲しい。うまい水だ。
 俺の部屋にみんなを呼んだ。布団を隅によせ、みんなと向かいあった。みんな、正座して押し黙っている。息子が「明日、行くから」と静かに言った。俺は「そうだな」と応え、孫の顔を見た。息子の長男が「いっちゃいやだ」と俺にしがみついた。下の妹は手の甲で涙を抑え、すすり泣いた。女房は下を向い向いていた。膝に置いた両の手はぎゅっと結ばれていた。俺がコロを連れて行きたいと言ったら、「それは出来ない」と女房が言った。
 外は雨の音がしていた。

 今朝は晴れていた。家の前の細い抜け道はぬかるんで、粘土のぬめりが足裏に直接、伝わってくる。水たまりを除けて通りにでた。通りは幾分、舗装はされているが、でこぼことして歩きにくい。通りを奥の森に向かって歩いた。息子は黙って、ついてくる。通りの片側には、先ず、バス通りとの角に自転車屋があり、いつものように売り出し中の自転車を店先に並べている。午前の光が車輪のスポークスにあたっている。そこから軒の低い家が続くと小さな食堂がある。店の表には「めし」と書いたのぼりが立っている。もう、中から、カレーの匂いが漏れてくる。少し行くと小さなスーパーに出会う。いつものように、ばあさんが二人、何やら言いながら露台を出して、野菜を並べている。笑っているようだが、何をしゃべっているのか。遠くに電車の音がかすかに聞こえる。舗道の石畳は午後の光を受け、暑さに萎えている。
 反対側には竹藪を包むようにしてトタンの塀が長く、続いている。その奥には灌木がだらだらと地を這い、小高い丘に向かって伸びている。丘を越え、森の奥には「あそこが」あるのだ。
 今日、見たことは、全部、覚えておこう。

 更に歩くと標識があり、「丘への道」を指していた。そこを曲がると道は急に細くなり、木の根っこが道を這い、大きな石が転がっている。両側から熊笹がかぶさって、あたりはだんだんと暗くなる。
 丘のてっぺんに出た。日が陰るまで待った。向こうで寒くないように陽を一杯浴びた。
太陽が真っ赤になり、休んでから、丘を降った。道の先は森のなかに消えている。森を抜けると道は登りとなり、こう配が急になった。そこに案内板にはこうあった。「この先には崖がある。跳ね橋がかかっている。着いたら橋を渡れ」と、書いてあった。さらに「この先は一旦、進めば後には返せない」ともあった。「じゃあ、ここまでだ」と後ろに立っている息子に向かい「帰ってもいい」と伝えた。
 先に進むにつれ、霧が立ち込めてきた。もう、なにも見えない。「ないも見えねば大和と思え」、ふと、この詩句が浮かんだ。前川佐美雄の歌だったか。
そうだ、みんなにお礼を言うのを忘れていた。息子を追おうとして振り返った。だが、いま来た道は消えていた。

 橋が見えた。ゆっくり、橋を先に向かって進んだ。途中まで来ると、突然、橋が跳ねた。体が宙に浮いた。
 ああ、これが、あの、「はね橋」なのだ。
 このまま、ゆっくりと落れば、「涅槃の地」へ行けるのですね。

 <引用文献> 

 斉藤政夫ブログ『短歌が好き』

    https://blog.goo.ne.jp/saitohmasao