Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の散文詩 ― 斉藤政夫 散文詩『はね橋』への感想

斉藤政夫氏の散文詩『はね橋』への感想

 斉藤氏の文章は、美しい。御本人は「散文詩」と称しているが、これは「小説」に値する「流れ」がある。以前、あるいは、昔、吉本ばなな氏がインタビューで、「小説家に必要なものは『正確さ』」だと述べられていた意味が、ようやく、分かった気がしている。斉藤氏は理系の職業に就かれていた。数字の世界で戦って時を経て、家族を養われて来た。そして、そこで磨かれた「正確さ」と本来の「文学による自己探求精神」が相まって、この作品が存在する。ここで思う「正確さ」とは「具体性」とは無論、異なる。「表現の細やかさ」である。物を書く時に、どこまで感覚を鈍らさずに書くか。如何に、感覚を鋭利にして、表出していくか。そこには、「読者へ届ける」気持ちなど入る隙間は無い。自分と自分の文章との対話と呼応だけである。そこまで深く集中し、この『はね橋』は書かれたと、私は確信している。斉藤氏は身勝手でありながら自分勝手な人物では無かった。人に愛想を振る舞う姿など、目にしたことが無い。そして、斉藤氏は自身に対しても愛想を振る舞うことは無かった。正確か不正確かで判断して来た、その積年が、斉藤氏の書く「散文詩」に、文字となって花開いている。この文章は(「小説」と敢えて呼びたいが)、その虚構のリアリティにおいて、「正確さのある描写」の連続故に、作者の強い思いが自己完結されながらも、読者にしっかりと伝わる、純度の高い結晶の様な、真摯さを覚えた。