本歌取りの妙(北原白秋)
春過ぎて夏来たるらし白妙のところてんぐさ取る人のみゆ
北原白秋『雲母集』
今日はいいお天気で、昼食を摂っていると遠くのマンションに洗濯物か何か干すのが見えた。「衣ほすてふ」という持統天皇の歌が頭を過ぎって、(季節は違えど)現代に置き換えたらこのような風景だろうかと考えた。
掲出歌は上の句がそのまま「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」の本歌取りなのだが、下の句が三浦三崎の人々が海藻を収穫する風景を描写して、土地のもつ雰囲気を言い得ている。ところてんぐさは夏の季語。有名な歌を取り込みながら、白秋の滞在している土地のはろばろと海の広がるのどかで開放的な空気を感じさせる歌に作り変えた手腕に、初めて読んだとき、深く感じ入ったのだった。
ほか、本歌取りの作品としては、
秋の田の稲の刈穂の新藁の積藁のかげに誰か居るそも(昼休憩)
うちいでて人の見たりけむ不尽のやまけふ白妙となりてけるかも(不尽の雪)
があり、三夕の歌を思わせる作品には、
あなあはれ日の消えがたの水ぎはに枯木一本秋の夕ぐれ(漁村晩秋)
一心に遊ぶ子どもの声すなり赤きとまやの秋の夕ぐれ(同上)
藁屋ありはねつるべ動く水の辺の田圃の赤き秋の夕ぐれ(同上)
がある。これだけ有名な和歌を素地として、新しい自分の歌に昇華しようとする試みには舌を巻くばかりである。なかなかそれほどの勇気がでない、と思ってしまうのだが、白秋には一切の気負いが感じられず、ただ自然と、軽々と作っている感じがする。本歌の世界観を深く理解し、自分のものにしていてこその軽やかさなのではないだろうか。古典を深く吸収し教養として身に着けている感じがする。
さて、『雲母集』には絵画的な歌も多く、北斎など、絵画のイメージをいわば「本歌取り」した作品には、次のようなものがある。
北斎の天をうつ波なだれ落ちたちまち不二は消えてけるかも(海光)
北斎の蓑と笠とが時をりに投網ひろぐるふる雨のなか(澪の雨)
とま舟の苫はねのけて北斎の爺(おぢ)が顔出す秋の夕ぐれ(水辺の午後)
虔ましきミレエが画に似る夕あかり種蒔人(たねまき)そろうて身をかがめたり(種蒔)
絵を描く人なので、本歌取りは和歌に限らないのだなあと楽しく味わう。これらの歌に限らず、他の作品においても情景を絵画的に捉える感覚が特徴の一つだろう。ちなみに、『雲母集』の挿絵がとても好きで、今見ても全く古さを感じさせないモダンで趣味の良い絵を非常に気に入っている。『雲母集』挿絵はコピーして、2021年の新しい手帳に貼ろうと決めているほどに。