Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の歌 ー 追悼 岡井隆

 岡井 隆(おかい たかし)1928年昭和3年)1月5日 生- 2020年令和2年)7月10日 没。

 世間がこれだけ騒いでいるのだから、私も学ぶに及ばずとも、触れてみたいとかねてより思っていた。その時期が来るのを待っていた。そして、今朝、新聞紙上に阿木津英氏が引いた歌に、きらめきを感じた。

 ホメロスを読まばや春の潮騒のとどろく窓ゆ光あつめて 『鵞卵亭』

意味は分からなかったが、この歌の「ゆ」の使い様に魅かれた。もしかしたら、私の思っていた岡井隆像というのは、全くの思い込みー前衛短歌に前のめりーであり、しっかりとした古語に精通したところから端を発した、深い人物像ー苦しみ方ーだったのではないか、と。又、記事の見出しにある「常若の歌人」という意味も気になった。

 説を替えまた説をかうたのしさのかぎりも知らに冬に入りゆく 『朝狩』

この引用歌から、「常に目新しい歌」ではなく「常に新しい試み」をし探究精神を貫いたことが窺えた。

その試みは、『現代短歌・83号』(p35)の加藤治郎氏と大辻隆弘氏の対談によると、

1 意味と調べの相克

2 古典的文体の再発見

3 ライトな文体の試作

4 ニューウェーブへの傾斜

5 口語文語混交文体の成熟

と分けられる。二人の論点に挙がった興味深い箇所を挙げる。

 岡井隆氏は、「短歌」の形式だけではなく「歌集」の形式にも考えを広げていた。例えば、p36にある加藤氏の「短歌の特質」についての発言に、「岡井隆は『多ジャンルにまたがりながら、短歌だけの持つてゐる特質をしつかりとつかんで立つといふこと』をどう考えたか」とある(注1)。そして、「短歌は、まず五七五七七の一行詩である。五七/五七/七の三行構成となり、また、五七五/七七の二行詩ともなる。いずれも対称性がない。短歌は『畸(き)の型』(注2)である」、「これは、正岡子規が「然るに短歌のみは一種異様の歴史を有し、調子のみ変りて詩形変らざるの変象を呈せり」(『短歌の調子』)と述べていることに通底する」とも述べている。

 塚本邦雄氏は近代短歌に対して、単純なアンチテーゼを提出したが、岡井隆氏の第二芸術論の克服の仕方はそれよりももう少し複雑なものである、と対談は続く。岡井氏は『岡井隆コレクション②短詩型文学論集成』の「自歌自注」でこう振り返っている、「旋頭歌は、五七七/五七七の二行詩として捉えることができる。左右対称性(シンメトリー)をなす、この釣合ひのよさが、この詩型の泣き所でもある」と。

 そして、『現代短歌入門』にて、自分の営為を「短歌の掴み直し」と呼んでいる。対談では、その意味を、近代短歌を克服したり、超克したりするのではなく、それを新たな基盤の上で掴み直し、もう一度しっかりした論理的基盤に据え直す、それが「掴み直し」であると語られている。

 ここまでで、私自身の理解は一杯である。最後に、付け加えたようではあるが、好きな一首を記す。

   ヴォツェックの記憶の上にかぶさる記憶。

椅子立ちて調停室に行くまでの数十秒の蹉跎たる意識 『ヴォツェック/海と陸』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

注1:前衛短歌には二つの側面がある。

 ①第二芸術論に呼応して、韻律の変革・暗喩の導入・〈私〉の拡大により短歌を革新したこと。

 ②最前線にいて、現代詩・俳句・散文といった他ジャンルと交戦することで短歌を更新すること。

注2:「畸(き)」・・・奇形。残り・余り。半端。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〈引用・参考文献〉

  阿木津英『熊本日日新聞』(2020年8月8日) 

『現代短歌ー追悼 岡井隆』(2021)現代短歌社