本日の一篇 ー 尾形亀之助
あるひは(つまづく石でもあれば私はそこでころびたい)
自序
何らの自己の、地上の権利を持たぬ私は第一に全くの住所不定へ。 それからその次へ。
私がこゝに最近二ヶ年間の作品を随処に加筆し又二三は改題をしたりしてまとめたのは、作品として読んでもら
尚、表紙の緑色のつや紙は間もなく変色しやぶけたりして、この面はゆい一冊の本を古ぼけたことにするでせう。
<メモ・感想>
20年程前、通っていた予備校の小論文の講師が、冒頭の一行を挙げた。インターネットなど普及していない時代、さらさらと黒板に書かれた「尾形亀之助」という文字を消されないうちに、ノートの片隅に走り書きし、帰りに書店で注文した。一瞬でこの一行にときめいた、ときめきがあったのだ。そして、大学時代、大学院時代も、嫌なことがあるとこの一節を思い、また、それを知っている我を自己満足的に誇りに思っていた。しかし、「八雁」では、もちろん、その様なことは無く、我以外にも知っている方々が少なくないことは察知できた。インターネットの導入、携帯電話の普及、情報が勝手に出て来る画面。それに、溺れそうになる我自身。悲しく思える。一体、今の日本社会で、本屋で本を探し面白そうな未知の本を手に取り、吟味しお財布と相談して買っては、車内で本を開いたり、急いで帰宅したり、という行為を純粋に出来る人がどれほどいるのであろう。私は今日、久しぶりにこの本を開いた。この一行を読みたくなったからだ。けれども、期待していた慰めにはならず、逆に、お叱りをうけた感がする。「自分しか知らないもの」があることは大切なことなのだ。そこに至る道程を近道してはならない。そして、「誰も知らないもの」だからといって、疎かにしてはならない。「繋がり」や「絆」などという甘っちょろい言葉で孤独を癒すことを、意識的に積極的に排除し、「誰も知らない」、共有していない、共有する相手がいない、その様なものであっても、自分がそれを好きであるならば、自分がそれを必要としているならば、純粋に愉しめるような人間に変化して行きたい。古びたこの詩集は、「これくらいの苦労はしろ」と唱えている。そして、幸いなことに、読書は独りでするものであるが、必ず、そこには作者がいる。孤独ではあるが、書き手を思えば一人では無い。もう一度、戻りたい。
〈引用・参考文献〉
尾形亀之助『尾形亀之助詩集ー障子のある家』 思潮社 (1975) p72-87