Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

選歌するということ

 先日のオンライン歌会には、草林集から3人の方々がおいでくださった。私はいたく感じ入ったのだった。歌評の着眼点が、わたし(たち)と違う。言葉、文法、用例の確かな知識の上にご自身の考えや感じ方があって、言葉に忠実だ。知識を振りかざしたり、議論に打ち勝とうとしたりといった何か不自然なところが全くなく、とにかく歌にまっすぐに向き合うフラットな姿勢…。尊敬した。

 興味深く感じたのは、選歌についてである。私の最近気になることの一つなのだ。

 歌を選ぶという行為は、最初のうちはもちろん自由に選んでいいのだけれども、やはり勉強に伴って選ぶ目を養わなくてはならない。歌会を通して、自分の選歌を振り返ることが大切だ。

〔振り返りポイント〕

 ①言葉の使い方や文法の誤りに気付けたか

 ②自分の勝手な想像や、体験に基づく思い込みを排除して言葉を忠実に解釈できているか

  ※歌を始めたばかりのとき、「私にもこういう経験があってとてもよくわかる」と発言し、こっぴどく叱られた経験がある。経験の有無は歌と何の関係もない。しかしながら、自分の意識を切り離して言葉に忠実になることは、意識しないと案外難しいのかもしれない。 

 まず、この①、②が基本だ。これを見落として歌を選んだとしたら、大いに反省しなければならない。①、②をクリアしていたら、まあ第一関門はクリアしたことにしよう。

 ③作った人の意図、工夫が生きているかどうかを見極められていたか

 ④歌が誰かの真似や、自分自身の類型に陥っていないか確かめることができたか

 この段階になると、勉強量がものをいう。味わってきた歌の数が多ければ多いほど、技巧には敏感になるはずで、成功した技巧と、効いていない技巧の差を見極める目が育っているか、過去の秀歌の用例に比して表現にオリジナリティや新しさがあるかどうか気づける目が養えているか、他の人の歌評を聞いて検証せねばならない。

 ※私は今この段階で、草林集の方々が「既視感がある」と評した歌を選歌していた。いい歌だと、確かに感じた。そこは間違ってはいない。しかし、「既視感の有無」という観点が意識にのぼらなかった点、また、既視感の判断材料になるだけの勉強を積むことができていない自らの不勉強を大いに反省しなければならない。

 この段階まで来ると、あとはだいたい、好みの問題になってくるような気がする。だから、草林集の方々の選歌も分かれて当然なのである。

 

 とはいうものの。

 私にとっては、阿木津さんの選が最も気になる。それは、私が阿木津さんを心から信頼し、尊敬し、他の人とは別格だと知っているからだ。言葉を通して人を見抜いてしまう、言葉のまとう気配を嗅ぎ取ってしまう、卓越した力。世俗を離れ、歌の良しあしという判断基準のもとに、皆が同じであるという信念。その人の本質的なところをできるだけ汲み取ろうとする懐の深さ、優しさ、おおらかさ。これは私からみた阿木津さんだから、真実の阿木津さんかどうかはわからない。でも、阿木津さんは出会った時からずっと変わらない。それだけでも十分、信頼に足る。だから、どんな一言でも受け止め、繰り返し自分に問いかけることにしている。

 勉強を重ねていけば、阿木津さんのほかにも、この人の目に留まりたいと尊敬と憧れを抱く人が出てくるだろうか。そして、いつか自分の確固たるものの見方が生まれるのだろうか。なんだか、そんなことをふと思った。