Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首 ー前川緑

奈 良  

  昭和十二年七月日支事變始まる

 この庭はいと荒れにけり下り立ちて見ればしどろにしやがの花咲く

 朝闇をつんざきて來る銃の音ただならぬ時を額あつく居ぬ

 奈良に住み西の山見る愁ありその夕雲に包まれする

 淺茅原野を野の限り泣く蟲のあらたま響き夜の原に坐す

逐語訳:淺芽原野(という地帯)を野のある限り(野原いっぺんに)泣く虫(や哺乳類)のあらたまが響いてい夜の野原に坐っている。

 秋の光はやくうすれて富みの川べに龍膽つめばわが手に餘る

 村人に田畑の話聞く秋を山吹の花の忘れ咲きせる                                           

 前川緑『現代短歌文庫砂子屋書房 (2009) p26-27

 

<メモ・感想>

八雁短歌会の会員T氏より、この歌の一連について、鋭くも貴重なご示唆を頂いたので、ここに記す。

淺茅原野を野の限り泣く蟲のあらたま響き夜の原に坐す

この歌を日支事變と無関係に読んでも作品として充分普遍性を供えた作品だとも思う。小題も詞書も作品だと考えており、その上で、作者がわざわざ、この詞書をここに置いた意味も考えざるをえないとも思う。ただ、直球で戦争を歌うのではなく、全身で感じ取ろうとするところに魅力を感じる。(以上・要約)

 私は、T氏の「この詞書をここに置いた意味も考えざるをえない」という示唆に、感動した。それに対して、自分でその応えを考えてみなくては、と思った。私が、まず最初に、考えた方法は、この詞書があった方がよいのか、無い方がよいのか、を自分で確かめる、決める(無論、これは私自身の中でディベートする為の基準を決める)ことにあった。                                           

 私は、本当は、詞書は無い方が好きである。この歌に限らずではあるが、基本的に無くても意味が通じるのであれば、歌に表しきれない事を詞書で補うのは卑怯だと思えた。不器用なら、なおさら、詞書に頼ってはいけないとも思えた。しかし、上記の歌は、不器用だからこそ加えた詞書、ではないかと推察した。的確な詞書でも無ければ、的確な用い方でもない。事実を、ぼんっと置いた、ただの言葉なのかとさえ思う。つまり、言葉の正確さに欠けるのである。ならば、削れるものは削った方がよいのではないか。と、ここまで考え至った末の結論を述べると、結局のところ、その「不器用さ」が、この歌集の一冊を通した味わいを加勢していると思う。それが「歌集」として詠む時の醍醐味であり、一首一首が大事なのは最もであるが、一冊を読み通して顕れる「歌集の貌(全体像)」を、読み手が感覚的に捉えることも大事である。

 私の考えはここまでになってしまいますが、もし、少しでも思う事があれば、ご意見やご感想を賜りたくお願い申し上げます。