Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首 ー 『現代短歌 第85号』を読んで。

 『現代短歌』(85号)を拝読した。特集は「岡井隆の〈詩〉を読む」であった。多分に私には難解な箇所があるが、私がずっと考えて来たことをこの場を借りて、記したいと思う。

 岡井隆氏は韻律に精通ー超絶技巧(p68)、超絶技術者、する者であった。韻律を短歌に絞って語り始めるならば、そこには「定型」という見えない境目を通り過ぎなければ、入り口には立てない。偶然にも、p90-91に、「歌壇時評」ー[「うた」の起源と定型]とした題で田中槐氏が掲載している。

 田中氏は、堂園昌彦氏の『短歌(四月号)』のエッセイ、「作者と定型の融和について」についてを切り口とし、「堂園氏は、どんな新しい「時代」や「テーマ」を詠もうとも、それは定型における単なるバリエーションになってしまう危惧を持っている」と述べている事に対して、「それは万葉集の時代からえんえんと続いてきた問題でもある。」「それを支えてきた「定型」とは何なのか」、「「うた」の語源でさえ、わたしたちは何も判っていない。」そして、結論として、「いまの口語短歌の定型のゆるさを論う気はまったくない。むしろ、口語短歌は定型と格闘せざるをえない。ただ、定型を壊すことに快感をおぼえているだけでは短歌にならないだろう。だからこそ、そこをどうやって自覚的にやっていくか。」「後付けになったとしても、そういった検証が求められているのではないか。」と括っている。

 加藤治郎氏(p70)も共時的に、「詩歌にとって音数律とは何か。あなた、どう思います? そんな問いを遺して、岡井隆は世を去ったのだと思う。」と述べている。

 呼応するかのように、田中氏は、「定型におさめることだけが短歌をつくることではない。」とし、「一作者として、文体を持つということについて、もう少し自覚的であるべきだ」と、初めて「べき」を用いて掲げている。

 私は田中槐氏の意見に賛同する。そう、「自覚的」に定型に向き合い、あるいは、「自覚的」に破調しているのか。単に平たく言えば、「定型に対するリスペクト」が口語短歌に感じられないことが多い。田中氏は「後付け」でも自覚的に検証する必要があると説いている。私も同感である。

 私はこう思っている。古来よりなぜか分からぬ「五七五七七」という「器」が存在し、数多の無名な人々が詠み継いできた、だからこそ、今、「短歌」が詠える。私は今、その「器」を借りているに過ぎない、その「器」を、次の世代に引き渡す、その、一時期を担っているに過ぎないと。

    私の自覚は以上になる。とはいえ、五七五七七のみに固執する気は無い。時代毎に中継ぎが居た。私もその一人を全う出来たらと切に思う。

 <引用・参考文献>               

 『現代短歌』現代短歌社 (2021・7月号) 

 

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