Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首 ー前川緑(八・完)『みどり抄』跋文

 下記に、『みどり抄』の跋文の要点を記す。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・           

 『みどり抄』は一人の歌人の十五年間の作品集としては、数が少ない。その理由は、彼女の歌をみればわかる。

 『みどり抄』を彼女の心の中であたためられいた期間は、かなり久しく、その間に、彼女は、次々に自分の古い日の歌を棄てていた。

 彼女の歌は、條件の説明を全然していない。品よく選ばれた作品は、もともと女性のこまやかな気質をもち、鋭い場所と気持から、物を歌っているから、説明的なものが出てこなかったのである。

 彼女の詩に関する何かの潔癖は、多くをきりつめて、一つの歌に懕搾したような歌である。

 この人は、異常な神経と、独自な感覚をもっていると云ってみても、そのあとすぐに、最も古い伝統を今の世に美しく伝えて、切なく新しくしている、そのきびしい心の事實を云わねばならぬだろう。

 彼女のいつも癇走っているような感受性は、決して特續的なものではない。高鳴っている間に、忽ち一種の植物生理風な喪失をする。あっとした間に、彼女の心の自然な緊張は、自然な解脱に陥っている時があるようだ。私は解脱ということは植物的變貌のように思う。そういう瞬間の危い一線で歌われた歌は、誰一人として以前に作った人のない、世界だった。

 それは、嘆きでも、叫びでも、訴えでも、くどきでもない。

 自然な緊張から忘我と忘生理の虚無に陥る瞬間の、何かきらめく心的なものがあらわれている。

          保田與重郎『窈窕記』

 前川緑『現代短歌文庫砂子屋書房 (2009) 

 <メモ・感想>

 「窈窕」とは、ヨウチョウと読み、美しくしとやかな様の意があるそうだ。至極尤もである。この跋文を拝読し、一番心を射抜いた言葉は、「自然な緊張」、である。脳が歌へすっと入っていく感覚。正に、それを一言で捉えた名言だと思う。私はこれまで、『みどり抄』を、彼女なりの努力と力量をもってして、最大限に心を込めて上梓したのだと思い込んでいた。か細い像を勝手に想像してしまっていた。とんだ奢りである。彼女も又、れっきとした歌人なのだ、それはつまり、自分の歌に全責任を持つことである。歌を自分から外界に送り出すことである。送り出し続けることである。

それでいて、ここまでの、真っ正直な、一本の草の様な、何とも静かに呼吸する歌に、私は感動する。

敢えて、言いたい。女に生まれて良かった、と。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。