Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首 ー 永田和宏

「六〇兆の細胞よりなる君たち」と呼びかけて午後の講義を始む

                永田和宏『風位』 

 初めて、永田和宏氏の発言に目を留めたのは、2020年の角川短歌賞の選考座談会での発言であった。大賞候補は五作品であった。永田氏は、「テーマとか、新鮮さは大事だけれど、訴えてくるものという意味で言うと……」、「部分と全体、<略>、個々の部分、フレーズが輝いていないと歌は読めない。それが一首の中で生きているか、全体の中で一首が生きるかという問題があって、部分と全体とがどう流れていくかということが、五十首を詠むときに大事になる」、「去年も言ったかもしれないが、自閉している歌が多い。作者は自分の感じたことを呟いているけど、声が前に出ていないから相手に伝わらない。呟くのではなくて伝えるという作り方の歌が我々に訴えかけてくる。」と述べている。

 その通りだと思った。基、思っていた通りの事を仰っていた。「分かって欲しいという我儘ではなく、伝えたい何かを表現すること」、短歌に限らず、私はそう思って生きて来た。生きて来たというのは、日記や読書を続けて来たことであり、大仰な何かに対してでは無い、自分の価値判断のことである。更には、感覚を尺度にした自分の勝手な判断基準である。

 話を戻す。私の耳にも、「日本学術会議」云々といったニュースは通っていた。政治と経済(カネ)に、なるたけ疎いままで居たかった自分は、聞き流し、人文系の学部が大学、大学院から減らされていることくらいで理解を止めてしまった。しかし、今回の『現代短歌新聞(110号)』の一面を拝読し、すぐに、『学問の自由が危ない』(永田和宏氏・p181-199)を買い求めた。

 まず、何がそうさせたかであるが、『現代短歌新聞』の永田氏の発言に、「一般の方たちは、これは学者の問題であって、自分には関係ないと思っちゃうでしょう。<略> 学問の自由というけど、次は必ず表現の自由にくる。ここで頑張らないと歯止めが効かなくなるという思いが強いですね。」とあり、事の内幕が見えて来たからである。更に、「任命拒否の理由をはっきり言われないとボディブローのように効いてくるんだよね。声をあげられるときにあげなければ、と思っています。」と締め括られている。

 ここで氏の発言にある「ボディブローのように効いてくる」というのは、「われわれ短詩型に関わる者もそうだけれど、おかしいという声をあげられるかどうかが一番大事なところで、そこで声をあげられなかったら表現に関わっている意味がない。まさに表現の自由の問題だと強調しておきたい」という発言に通じる。つまり、政治に異論を唱えることの出来るツールを政府は徐々に減らしていきたいのだーそれも、なるべくならば、日陰的な民衆の目に見えないところでーとまでは分かった。

 まさか、短歌を通じてこの様な出来事を知るなど思いもよらなかった。そして、短歌の第一線にいる方々が政府を相手に、声を上げている。

 永田和宏氏の発言に繰り返し出て来る言葉、「声を上げる」、「訴えかける」、「伝える」。

 そして、こうも述べている。

 「表現者というのはどこかで水面からぴょんと飛び上がらんといかんと思う。いつも皆と同じ背丈で同じ目線でものを見てたらだめで、ときどきは飛び上がって見ないと表現は成り立たない。」

 ぴょんと出て、叩かれて、それでも、声を上げ、訴えかけ、伝えようと、し続ける。

 何を伝えたいのか。なぜ伝えたいのか。それは、平等な、自分にしか問うことのできない、権利である。

 

<引用・参考文献>   

『現代短歌新聞・110号』現代短歌社(2021)

  佐藤学 上野千鶴子 内田樹『学問の自由が危ないー日本学術会議問題の深層』晶文社 (2021)      

『現代短歌』現代短歌社 (2020・3月号) 

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*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。