Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首 (改)ー 佐藤佐太郎

昼ごろより時の感じ既に無くなりて樹立(こだち)のなかに歩みをとどむ p87

おのづから心つかるれ日曜の午後の時間をもてあましつつ p89

座布団を廊下にしきて暑き日のしましを凌ぐ声もたてなく p99

ともしさも馴れゆくらしきこのごろや夕暮れし部屋われは掃きつつ p94

   佐藤佐太郎 『佐藤佐太郎全歌集』(2021)現代短歌社 

 

 とある人からとある時に、「あなた(関口)、歌が慰めになっていませんか?読んでいて疲れます」と言われたことがある。

駄々広い八畳の自室に独りきり何のために生まれて来たのか

夕暮れの部屋翳りゆき堪えられず早く雨戸を立てる冬の日

 上記の歌(作者=関口)についてであった。私は、文学というものは慰めであって良いと思っている。ただし、作者は作品に甘えてはならないとも「八雁」で学んだ。書くことはカタルシスであるとも思う。

 その、とある人を含め、佐藤佐太郎氏の歌が好きだという方が多いので、『歩道』を読んだ。上記四首は、破調もあり、内容としてはごく普通の日常を詠っている。それでも、私も心に石ころが投げ込まれた様な、ゴツンと確かに胸内に小音がするような、作品の頑健さを感じた。さて、である。分かり切ったことであるのかは知らないが、私は、佐太郎は「(歌を)作る」人だったと見受けする。そして、それは、「古語」に精通しているからこそ、勝負強くなるのであって、現代の口語で佐藤佐太郎氏を追いかけて同じ作り方をしたら、火傷するのではないかと、結論付けた。私自身は、佐太郎の歌に納得した上で、一首一首が、小話のような愉しみを覚えた。それは、佐太郎が自作と自身との距離をとって「作品」を作っていたからであろう。

 日常を詠う。何の為に詠う?なぜ?、それは、今日を、今日の自分を、残したいからではないだろうか?何かひとつでも形あるものを、と今日を記す。記さなければ消えていく今日を残す為の、努力。それこそ、自分の一日を意味あるものに昇華する、歌い手にとって慰めの行為となるのではあるまいか。そして、そこから立ち昇って来た「作品」に、「慰め」を越えた、作者と読者の「共感」があれば、それが文学の力だと、私は信じ、佐藤佐太郎氏の歌に「共感」した。

 内容が健康的であれば、歌に甘えてはいない、というのは至極表面的な捉え方である。「内容」と「歌い方」の両者に、それは出でて見えて来る。どんなに健全なことを、どんなにそつなく歌っても、自分にとって意味のある事が読者へ届かなければ、それは、共感に及ばない独りよがりな甘えた歌になってしまう。

 私は、喜怒哀楽を感じ取って貰える歌を、詠える様になりたい。「気持ち」を伝えたい。「共感」することで孤独が薄らぐ様な、そういった歌い手になりたい。その「志」しか、短歌を作り続けていかれる理由が、他に本当に見つからないのだ。

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*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。