Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

「感性を鍛える」(斎藤政夫)

詩でも良い。短歌でもいい。いい作品を作りたい。そう願いながら、もう何年も過ごしてきた……、怠惰に。  

 たとえば、こんな歌を作りたい。 

   青葦の茎をうつせる水明かり風過ぐるときましてかがよふ  春日井健

 漢字を使わないと伝えられないような歌である。漢字がもろに効いている。 

 

 感動には直接の感動と間接的(詩歌や絵画、報道から受けるような受動的な)感動があって、素材の違いによって感動の強度に差がでる。なぜなら、間接的な感動は作品を書いた、描いた、あるいは、作った人の表現を受けての感情であるから、直接的な生の感じとは違い、距離がでてしまう。それは、作者のフィルターを通したものを受けての感情であるので、感情の揺れの幅は作者には及ばない。 

  

 間接的な感動の例として、絵画から受けたものを二つ挙げ、この感動を歌にしてみたことがある。 

  森本草介は写実絵画の画家だ。彼の裸体画に感動を覚えた。(「写実絵画の新世紀 ホキ美術館」)の画集から。 

   なめらかな背は脱衣せり恥じらいの眩くまでにエロスこぼせり 

  アントワーヌ・シャントルイユはバルビゾン派と称される画家である。この絵は「そごう美術館」に展示された。 

   アントワーヌ・シャントルイユ描(か)く黄昏は日の落つるほど安息ぞ満つ 

 この歌は横浜歌会に提出したときのものだが、評価はほぼゼロ点に近かった。一行詩では絵などの感想を表現するのは難しい。以降、絵や写真を見た時の感動は、歌にするのは止めた。 

 

 直接的であれ、間接的であれ、「いい歌」を作れない根本の理由は二つあると思う。一つは表現の技巧上の問題であり、もう一つは感性(外界からの刺激を受け止める受容側)の問題である。技巧上の問題は「いい作品」に数多く触れることで解決できそうだ。これは努力や訓練で何とかなるはずだ。だが、感性の問題は簡単ではない。訓練しようがないからだ。 

 感性力を上げる方法は簡単ではなさそうだけれども、解はありそうに思える。感情は外界の刺激がもとになっているので、刺激をどう受け取るかによって、プロと素人に差が出ると思う。プロは、よく知られているように、彼らの育ちを知ると、彼らは少年・少女期にその芽生えを持っていることが分かる。彼らはスタート地点から違っている。だからといって、嘆いたりしないで、この課題に取り組んでみたい。感性力を磨くのだ。外界である自然や社会を真っすぐに、突っ込んで迫ればよいのでないか。自然をぼうっと見ないで、社会の出来事をよそ事としてしないで、心を寄せて迫ることがよいと思う。 

 

 話を戻すが、間接の歌には、もっとも難しい社会詠で、それにあたる歌として阿木津さんの歌があるので示す。 

   アパートに餓死の骨あり散乱す子と母とまた病みたるものと 阿木津英 

 

 社会詠については思うところがあるので、別の稿で述べたい。  

 

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