Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首 ー (改・改め)『現代短歌 第87号』を読んで。

 『現代短歌 第87号』を読んだ。今特集は「BR書評賞」(ブックレビュー賞)である。一読して難しい内容で、抽象論も多く、尻込みをした。それから数日経って、ぱらぱらと何回か眺めているうちに、ようやく、「理解してみよう」「面白そうではないか」という気がした。それでも、それにしても、難しい。

 書評など書いたことが無い。分かる頁を探すと、BR書評賞を受賞された小野田光氏の「受賞のことば ー ストライクゾーン」(p16)に行き当たった。氏はこう述べている。

 

〈引用〉*******************

 心の底でほんとうに思ったこと、感じたことを、言葉で正確に表すことは不可能だけれど、その言葉を受け取った人は何かを思い、感じます。言葉を発した人の思ったこと、感じたことは、また違ったことを思い、感じているのではないか、とわたしは思います。

 社会で、特に近年、精力的に行われている言葉尻を捉えてのやり取りは、他者の前言を自らの都合のいいように解釈することに終始しているように見えるものも多くあります。これらのやり取りの前提には、自分も他者も思っていること、感じていることを言葉で正確に表すことができるという考えがあるのではないでしょうか。

 言葉のある世界に育ち、暮らしているわたしは、ある程度は言葉の利便性を信じていますが、社会的な意味での言葉の正確性より、そこに収まりきらないものごとのほうが大切だと思っています。言葉で伝えきれないものを、人間は言葉以外のあらゆる要素を用いて伝え合い、それでも結局は伝わり切らずに日常的に誤解し合います。そんな日々の中で、言葉では正確に表せないことを、少し形の違う言葉を用いて表そうとしている人たちが歌人なのだと、わたしは信じています。

 わたしは野球のストライクゾーンが好きです。〈略〉 見えないストライクゾーンに言葉を投げ込む歌人。それを打てるかどうか見極める読者。わたしは様々な歌集のストライクゾーンを書評で伝えたいのです。社会のストライクゾーンと違い、ほんとうのそれは決して単純化できないのだと伝えたいのです。

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  読後に、そう言い切ってよいのかと疑問を持った点が二つある。「言葉のある世界に育ち、暮らしているわたしは、ある程度は言葉の利便性を信じていますが、社会的な意味での言葉の正確性より、そこに収まりきらないものごとのほうが大切だと思っています。」という発言である。続いて、「言葉では伝えきれないものを、人間は言葉以外のあらゆる要素を用いて伝え合い・・・〈略〉・・・言葉では正確に表せないことを、少し形の違う言葉を用いて表そうとしている人たちが歌人なのだと、わたしは信じています。」という箇所である。

上記について、分からなかったのは、

まず、「社会的な意味での言葉の正確性があり、その正確性に収まるものと収まりきらないものごと、とに分かれている」という発想。

次に、「言葉では正確に表せないことを、少し形の違う言葉・・・」という発想。この一連に用いられている「(三つの)言葉」はグラデーションのように作者の中では色分けされているが、読み手の私には統一感に欠け、理解がまだ出来ない状態にある。

 どうしてここに疑問符がついたかと言えば、「そう棲み分ければ、日常生活は楽になる」が、「日常生活において、なるべく、自身が最も大事にしたい『言葉』や『言葉遣い』、『文体』を、消さずに生きて行く」ことで、自分の言葉や自分の表現が、自然淘汰されて残っていくのではないか、と常々、私は思っていたからである。つまり、表現する言葉と社会生活における言葉を、二か国語のように、最初から分けて考えてしまって良いのか、ということである。

 私自身は、そこを如何に擦り合わせるか、割り切れない日々を過ごしている。何に対してどのように割り切れないのか。 

 それは、SNSを使ったやり取りである。

ものすごく便利な、『LINE』『ショートメール』、その他を挙げれば、Facebook、インスタグラム、Twitter、等の「文字で他者と『繋がる』機能」において、手こずっている。それは、私が過ごして来た青春、青年期には無かった時間である。そして、最も私が恐れているのは、その「インターネット上の言葉や言葉遣いの『感覚』」が、どの様に、作歌に影響を及ぼすのか、そして、読み手もその『感覚』をあらかじめ備えて歌評をする時に、どれくらい、意識しながら評するようになっていくのか、である。言葉と声は、もう、どんどんと、分断されているのではなかろうか。そうしたインターネット上で発する言葉や言葉遣いは、「口語」として流通し、現時点で言われる「口語短歌」へ、その「口語」が放流されっぱなしである様で、恐いのである。

 これまでの「五七五七七」三十一文字、の莫大な古典、文語が、この先どこかで、取り返しのつかない変化を強いられるかもしくは、圧倒的な底力で反発して来るのか。

 どちらがよいかに関して、絶対の正解は無い。自分と言葉の関係性、自分の発する言葉は、自分自身で加筆修正するしかない。価値観の異なる言葉遣いをする人もいるであろう。そうした機会に、自分の発する言葉を試行錯誤しながら、相手に届くように、何度も突破していく中で、自然と自身にとって真価ある言葉と言葉遣いが顕れてくるのだと、私は思っている。

 昨今、短歌は、「私記録性」、「一人称文学」という前提からズレが生じ、「作者」と「作中人物」が異なる事を前提に書評が書かれることもある。

 私は、そのどちらかに立ち位置を決めずに、両立、あるいは統合し、作歌していくことは可能なのではないかと、最近、思い始めている。ただし、それは、日常生活で発する言葉や言葉の選択を意識し、自分の表現(する言葉)と照らし合わせて、自分の言葉を磨き続けている限り、である。つまり、表現する言葉を日常生活になるべくは浸透させていく試みがあってのことである。時間も掛かるし、生真面目だとも言われた末の、「意味が分からない」と友達に言われるぎりぎりの所まで、私は、言葉を、日々、生活場面で、ストライクゾーンに投げ込み続けている。

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*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

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