Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首 ー 『第88号 現代短歌(「第九回 現代短歌社賞発表」)』を読んで。

 

<第九回現代短歌社賞>

受賞作品(同時受賞・二作品)

母逝きしこの世の冬の夕空をこゑはろばろと白鳥わたる                          

在りし日の父母を思ひてわれら亡き後をし思ひ仏具を磨く                        

近づきし白鳥のこゑこの丘にしばし響きてふたたび遠し 

打矢京子『冬芽』p24-29(阿木津英 選)

 

晴れた日のスノードームは輝いてもう残酷な不機嫌ばかり                                               

百人のサンタクロースのプレゼントを入れても大丈夫な靴下を履く

永井亘『静けさの冒険』p32-35(瀬戸夏子 選) 

 

<選歌・感想>

 私は、今言われている「口語短歌」、「ゼロ世代」の短歌が、本当に分からずにいる。率直に述べると、「見分けがつかない」のである。そして、その大きな「混乱」にきちんと向き合い、小さな「理解」でも、成すべきだとずっと思っていた。<第九回現代短歌社賞>は「新人賞」にあたる。そこには、「新しさ」が求められる。だが、選考座談会の過程を読み、「新しさ」とは何か、とも問いたくなった。

 受賞作品の、二作品は趣の全く異なるものである。一部、『冬芽』に「新しさがあるか否か」という点が上がっていた。私は、その意見に対して、解釈する側の裾野の広さによって、『冬芽』の「新しさ」が見え隠れするように思えた。ベテランだろうが世界観が定まっていようが、「目新しい」ものが果たして本当に「新しい」ものであり、整ってしまったものは「新しさに欠ける」ものなのか。

 結論から先に言えば、私は、「新しさ」というのは「進化」であると捉えた。それは、一人の人間が今ある自分の歌から脱皮し続ける、その様だと思う。

 その行為を支えるものの一つに古典があり、五七五七七の可能性を、古人がありとあらゆる技巧を駆使して前進してきた、その線上に、今日の「短歌」が在る。

 生きて行く為に「作歌」が必要があれば、今一度、「短歌」とはどういうものなのか。「詩」や「散文」とどこが異なるのか。その内省無くして、「進化」はあり得ない。「基本」を学ばずして、自分の叫び道具になったままでは、「目新しさ」だけで終わってしまう。「基礎」を地固めせずに、ざざっと傾斜を滑り降りる様な態勢のままでは、作歌はおそらく「続かない」であろう。

  『冬芽』にある「孤独」は、『静けさの冒険』にある「孤立」とは、異なる。

  「これが、短歌です」と言われた時に、私自身はそれに耐えうる歌を差し出せるのか。

 私は、口語短歌に、そういう向き合い方をし、し続ける。

 そう、「決意」、した。    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・