Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首 ー 永井亘(復刻版)『第88号 現代短歌(「第九回 現代短歌社賞発表」)』を読んで。

生きるとき死体はないが探偵は文字をひらめく棺のように
 「静けさの冒険」永井亘 p32(瀬戸夏子 選) 
 
 そもそも、新人賞とは何を指標としているのであろうか。「目新しさ」が最優先基準なのだろうか。そうであれば、なぜその作品が「新しい」のか、その「新しい作品」にはどの様な「新しい養分」が含まれているのか。果たして、その養分はどこから吸収されたものなのか。
 目新しさの話ならば、古くは、○○文学賞で原稿用紙に一枚に斜め書きに文章を書き連ね、名前だけでも選考委員の目に留まる様に、応募要項内の限りを駆使し、目立とうとする話を思い出す。
 今回の、「第九回 現代短歌社賞発表」の受賞作二作品の内、私が引っ掛かったのは、永井亘氏の『静けさの冒険』の、「作品」ではなく、「受賞のことば」にあった。無論、私自身が、現時点で呼ばれている、口語短歌、00世代、に対して、和歌から始まる五七五七七へのリスペクトが欠如している、という強い先入観を抱いている事を認めておく。
   なんやかんや言いながら、永井氏は率直に、「どうして作品を賞に出そうと思ったのか。賞品の歌集五百部が目的でした。自分の歌集を出したい、できる限り低予算で、……」と述べられている。氏はどこかの結社に所属することなく、2018年より2020年までウェブサイトでペンネームで、自分の歌を載せていたそうである。
 どうして、ウェブサイトでは飽き足らず、「歌集」を出したくなったのか。
 なぜ、「自由詩」ではなく、「短歌」の方へ歩み寄っていったのか。
  続く言葉にこうある。「私のような孤立した作者は、この雑誌以外ではデビューできなかったと感じました。僥倖でした。と言いつつ、私は自分の作品が受賞しないはずはないと、確信を抱いてもいたのですが。」〈略〉「作品は、本は、作者の意思とは無関係に、独立した力を持つでしょう。」。
 氏は、とっくに「『短歌』に救われている孤立した私」に気が付いているだろう。
   いつか、いつか、いつか、あなたは、今のあなたそっくりの若者に、同じ言葉を突き付けられるかも知れない。そして、その若者は、あなたの「歌集」を読んでいないかも知れない。
 けれども、私は、
 その時の、あなたの「歌」を読みたい。
 その時の、あなたの「短歌」を読んでみたい。
 「その時のあなた」の為の受賞だったと、「作品」を読みました。

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*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

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