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「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首 ー 阿木津英「釋迢空」について③(前半)

下記、釋迢空の略年を通して、時代背景を記す。

1887年(明治20)大阪浪速区の生薬屋に生まれる。

1900年(明治33)十四歳。父に買ってもらった『言海』『万葉集略解』を精読、筆写。

*『言海』・・・国語辞典。

1901年(明治34)十五歳。三兄の進(すすむ)氏がとっていた『明星』、『心の花』を   

読む。進氏が「文庫」に、迢空の歌を(無断で)投稿し、服部躬治の選に入る。

*この年に與謝野晶子の『みだれ髪』が出版され、全国的に「明星」が流布する。

*短歌の投稿雑誌が流行り、北原白秋なども投稿していた。

1902年(明治35)父急逝。図書室の『新古今集』を読み耽り回覧雑誌に短歌を載せる。

*この時代は、まだ、「''和歌''の世代」。

*和歌的教養が浸透している時代であり、まだ、旧派(宮内庁歌会)が強かった。

1905年(明治38)中学卒業。九月に國學院大學予科に入学。

1907年(明治40)二十一歳。国文科に進学。服部躬治に入門(束脩)するも、一度の批評を受け、止める。

1908年(明治41)『アララギ』創刊。~明治42年 森鴎外の観潮楼歌会。

*『アララギ』・・・伊藤佐千夫が中心、長塚節、古泉千樫、土屋文明が主要。

1909年(明治42)二十三歳。子規庵の東京根岸短歌会に出て、伊藤佐千夫、古泉千樫、土屋文明などを知る。

明治38年日露戦争後、「自然主義運動」があらゆるジャンルに影響を及ぼし、文学の地殻変動が起きている状態であった。

*子規庵は狭い作りであり、七、八名が入る程度の広さである。

自然主義〉興隆の時代・詩歌文学の世界と現実・生活の世界

 鉄幹 vs 白秋・夕暮・啄木らー明星・すばる

 佐千夫 vs 赤彦・茂吉らーアララギ

*鉄幹の『明星』が下火になっていき、『すばる』(1913年まで)を出版。

1910年(明治43)國學院大學国文科卒業。石川啄木の『一握の砂』刊行、精読。

*関西同人根岸短歌会に出席・・・万葉原理主義で古臭い。

1911年(明治44)十月、府立の中学校の嘱託教員となる。

1912年(明治45/大正1)教え子等を伴い志摩・熊野を船で巡る。『安乗帖』を作る。

1913年(大正2)柳田国男が雑誌『郷土研究』創刊、十二月号に投稿掲載。自筆歌集『ひとりして』を編む。

*『ひとりして』は『安乗帖』が基となっている。

根岸短歌会には、顔を出す程度で、独りで独学により探究していた。

1914年(大正3)辞職。四月に上京。後を追ってきた生徒等と同居。

1915年(大正4)普門院・佐千夫三周忌歌会に出席。島木赤彦、土岐善麿を知る。

1917年(大正6)三十一歳。アララギ主要同人に推挙される。

1921年(大正10)三十五歳。アララギを離れる。

1924年(大正13)「日光」に加わる。

1925年(大正14)三十九歳。『海やまのあひだ』刊行。

1926年(大正15/昭和1)島木赤彦没。

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・明治三十年~正岡子規の写生を重要視する流れが、自然主義文学の前駆であった。

落合直文の弟子は、ロマンティックを詠う与謝野鉄幹と、それに反発し、叙景詩運動をした服部躬治、尾上柴舟がいた。

・釋迢空は、①自然主義石川啄木 に影響を受けている。

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<参考文献>

阿木津英『アララギの釋迢空』(2021) 砂子屋書房

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*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

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