Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

斉藤政夫 ー 感動を表現するには

感動を表現するには

子どもの虐待事件が報道されるたびに、胸が痛む。2019年1月24日に千葉県野田市で起きた小4女児死亡事件は忘れられない。小学4年栗原心愛(みあ)さんは義父から拷問ともいえるほどの虐待を受けて死亡した。

 心愛さんは11月6日、当時通っていた小学校のいじめアンケートに「お父さんにぼう力を受けています。先生、どうにかできませんか」と記し、助けを求めた。(添付画像1)

もう一つ、ほぼ同じ時期に児童虐待事件が起きている。

2018年3月、東京都目黒区に住む船戸結愛(ゆあ)ちゃん5歳が両親から虐待を受け、亡くなった。結愛ちゃんは両親から日常的に暴行を受けていたと見られており、見つかった時には全身170カ所の傷を負っており、体重はわずか12.2キロでした。

 私の心に残っているのが結愛ちゃんが両親に向けて大学ノートに書いた手紙(反省文)です。(添付画像2)

「パパとママにいわれなくてもしっかりとじふんからもっともっときょうよりかあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるしてくださいおねがいしますほんとうにおなじことはしません ゆるして」「きのうぜんぜんできなかったこと これまでまいにちやっていたことをなおす これまでどんだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだから もうぜったいやらないからね ぜったいやくそくします」

5歳の女の子が書くような内容とは思えません。5歳の女の子が反省文など書くでしょうか。

報道記事を読むと、当時の女児が置かれた厳しい状況が分かる。女児はどんなにか「恐ろしかっただろう」「苦しかっただろう」と思う。胸の底から悲しさがこみあげてくるのだ。

この気持ちはどうしようもなく、訴えずにはいられない。それで、これを歌にした。歌にすると、悲しさも相対化してしまうから、歌にしないほうがよいかもしれない。歌が現実の事件に押しつぶされるのだ。散文詩の方がうまく言えるかもしれないが、散文詩もまたそれ特有の難しさがある。焦点がぼけるのだ。まして、散文だとなおさらのことだ。

拙歌を以下に示す。

眠らせず食事を与えず水浴びせ義父(パパ)はすごみて小女死なせり

 歌が歌えないのは技量の稚拙さもあるが、そもそも、こういう社会詠に属するような重いテーマは一行詩では無理なのではないか。このようなテーマは歌ってはいけないのではないか、と迷う。

 少し長くなるが、島田修三は、「感動とは何か」というテーマ(「短歌」掲載)で、次のように述べている。

 小説、演劇、映画、アニメ、漫画でもって感動することもあろうが、その感動を歌に、などという間接は、いやしくも歌よみとしてなにやら間の抜けた話ではないか。歌という短い形式は、大きく激しく揺れ動くこころを、その原因となった事物・現象込みで表現するにはあまり向いていないと私は思う。

 働いても働いても生活が楽にならずに滅入る男が、じっと掌を見つめたーーーその瞬間を余韻、余情としてよぎる微かなこころの動きが読者のこころをとらえる。こういう表現と享受の間の文学的回路を切ひらいたのが近代短歌だといっていい。

これを自覚的な歌論として窪田空穂は、「微かなひびき、微かなゆらぎといった風な一呼吸」を歌のモチーフに捉えようとした。こころが深々と感じ入った結果、大きな揺れ幅で動く感動というようなものでなく、日常の瞬間瞬間をこころによぎる、ともすれば見逃してしまうような微妙に揺らぐ気分を捉える。いわゆる微動論、微旨論である。

 こうしたものを読むと、「大きな揺れ幅で動く感動」は歌っても歌にはならないと思わされる。しかし、何と納得できないが、一旦は、意見を保留することにしよう。

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