第四十二回 『酒ほがひ』吉井勇
『酒ほがひ』吉井勇(明治43年)
<選歌12首>(全718首より)
衰へしともなほ知らぬ君見ればああ冷笑ぞ頬にのぼりぬる
歎きつつ三年(みとせ)のまへの相知らぬふたつの世へと別れて帰る
ただひとつ心の奥のこの秘密あかさず別る憾(うらみ)なるかな
いかにせむ君は男の外套を遂に脱がざるかなしき少女
君が家のまへを通るもはばかりぬ鎌倉びとは口のさがなし
隠しゐぬひとり密かに忍び来て君が夜戸出(よとで)を待ちたることも
薔薇(さうび)の香にほひきたりぬわかうどが涙ながしし物語より
珈琲(かうひい)の香にむせびたる夕より夢見るひととなりにけらしな
わが少女水夫(かこ)の腕(かひな)の入墨(いれずみ)のされかうべをも怖れずといふ
ふところに短銃(ぴすとる)あるをわがまへのたはれ女どもが知らぬをかしさ
かたりつつかたみに憂(う)しと思ひ居ぬ覚めたる人と覚めざる人と
かなしみの家と扉(とびら)にしるしたる館(やかた)のまへをたもとほる君
うつくしき白(せりふ)のごとく思はれてわれ聞き恍(ほ)れる君が言葉に
『酒ほがひ』について
作者24歳時の第1歌集。伯爵幸蔵の次男として生まれる。早稲田大学中退後、北原白秋、高村光太郎、木下杢太郎、石井柏亭らと「パンの会」を起こした。歌風は、耽美頽唐で、赤木桁平から「遊蕩文学」であるとの攻撃を招いた。同じく伯爵の出生である徳子と1921年(大正10年)に結婚、1933年(昭和8年)に別居、離別。1937年(昭和12年)、国松孝子と再婚。選歌については、「君」「恋」「二人」「少女」など作者が多く用いている語が、あまり主題となっていない歌を選んだ。
【参考・引用文献】 『現代短歌全集』第二巻 筑摩書房(1980)