Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首 ー 阿木津英 真野少

躁の日は花を摘み来て道端にわが並べ売る「10円」と書き

             真野少「明暗」

 の歌を読んだ直後、「うわあ、すごい、分かる分かる」と、一人で有頂天になった。その後も、この歌は好きな歌であり、たまに思い出す歌となった。凄い発想力だと感服していた。それは、今もこれからも、変わらない。

が、しかしながら、時を経て、更に驚くことが待ち受けていた。阿木津英氏の第一歌集である『紫木蓮まで・風舌』を何気なく繰っていたところ、

鬱の日は花を買いきて家妻と親しむなどの発想憎し

          阿木津英「花と鬱」

 という歌が出て来たのだ。驚きだった。真野氏が阿木津氏の本歌取りとして、この歌を詠ったのかは定かでは無いが、それでも真野氏の歌は見事な返しだと思える。もう一つ言えることは、真野氏がこの本歌を覚えていたのか否かである。つまり、どれくらいの時をかけて「躁の・・・」の歌を作歌したのかである。

 その一連を考えると、歌を巡る様々な奥深さに慄く。けれども、阿木津氏の現実味を帯びた歌と真野氏の寓話的な歌が、どこかで通い合っていることに、慄きを越える愉しさを感じ入った。

<引用・参考文献>

 真野少『八雁』(2018年・9月号) p8

  阿木津英『紫木蓮まで・風舌』(1985)株式会社沖積舎 p103

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

本日の一首 ー 山崎方代

大正三年霜月の霜の降るあした生まれて父の死を早めたり

 何か新しい良い歌は無いかと冊子を開くと、「11月の歌 田村広志選」の欄にこの歌があった。破調である。8・5・5・7・10、35字からこの歌は成る。私がもしこの歌を推敲するならば、おそらく、「霜の降る(あした)」を「霜降る(あした)」としてしまいそうである。が、ここでなぜ「霜の降る」の「の」が必要なのか。反芻してみると見えて来る。この歌は、「霜の降る」で韻律は句切られ、「あした生まれて父の死をを早めたり」となるが、意味の連なりは「霜の降るあした」となり、意味の句跨りになっている。何とも洒落た作りである。私はこの歌の、威風堂々とした破調に短歌の誇りを感じた。破調だから何だと言うんだ、という声が聞こえてきそうであった。泣くではないか。自分が親にかけた苦労を自身の生まれた日に偲び、悔恨の意すら持ち堪え、更には、一首に留める。そんな人間の優しさがあるか。それをこれだけの勇気と正義と覚悟でもって伝えたいことを伝える、そんな望まれた破調があるか。諸君!その真っ只中に私も居る。

<引用・参考文献>

『角川短歌 11月号』(2018)より 山崎方代『右左口』

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

本日の一首 ー 釋迢空 

人も馬も道ゆきつかれ死にゝけり旅寝かさなるほどのかそけさ

 3年以上前だろうか、大川さん(八雁短歌会員)と一緒に勉強していた時期があった。その時に、大川さんが分からない歌として掲出歌を示し、二人で、頭を捻った記憶がある。今となっては、何に知恵を絞ったのかすら思い出せない。大川さんにお尋ねしたが同じ様である。

 今、考えてみよう。

逐語訳

人も馬も旅の疲れで死んでしまったのだなあ、旅の寝が重なるにつれて消えてしまいそうになる微かさ  

『海やまのあひだ』に収録されている有名な歌である。けれども、私は、今以って、逐語訳以上の解釈が出来ない。逐語訳すらも誤りがあるかも知れない。ただ、当時から、特殊な(構成の)歌だと思っていた。その特殊さを、過去に完全に拒絶した自分がいる。しかし、今ならば、受け入れられるかも知れない。好き嫌いの問題ではない。腹におさまるような理解をしたい。それだけは、分かる様になった。

        

【参考・引用文献】

  『現代短歌全集』第五巻  筑摩書房(1980)

 阿木津英『アララギの釋迢空』砂子屋書房(2021)

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

本日の一首 ー 『現代短歌 第77号』ー「短歌にとって悪とは何か」を読んで

 『現代短歌』(77号)を拝読した。題は「短歌にとって悪とは何か」である。この特集の冒頭に掲載されていた、吉田隼人氏の「欠損と沈黙」p26-31について記す。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 吉田隼人氏は、「沈黙ー二重の罪」、「欠損ー否定態の花」、「フェリックス・クルパ!—幸いなるかな罪を」、「空間の天使的共有(パルタージュ)」と章立てしている。難解なので、前者二章を中心に理解を進めていく。

 まず、第一章「沈黙-二重の罪」の要約を試みる。吉田氏は、ジョルジュ・バタイユモーリス・ブランショ論を引用し、述べている。沈黙を語ること、言語において沈黙をあらわそうとするのは、「言語に対する犯罪」と「沈黙そのものに対する犯罪」の二重の犯罪である。

 「言語に対する犯罪」とは、沈黙という語を、声に出す、紙に書く、その時点でそれは既に厳密な沈黙ではありえない。「沈黙という語そのものが既に一個の音である」。それでもなお、「何ごとかを語る」ことから言葉を解放する。意味への従属、伝達への従属から言葉を解放すること。それは、ジョルジュ・バタイユにおいて「詩(poesie)」と呼ばれ、ポエジーは何かから切り離されてあることを語るべく「望まれた沈黙」であり、語を生贄に捧げる「供犠(sacrifice)」である点において、ポエジーはインモラルである。

 「沈黙そのものに対する犯罪」とは、言語において厳密な意味での沈黙は不可能であるかも知れなかった。それでもなお、言語はいかにして沈黙するのか。バタイユは、それを生における死のあらわれ、存在の不在に重ね、「(言語の)不定形(informe)」のかたちーかたちなきかたちーをとってあらわれる。

 次に、第二章「欠損ー否定態の花」を要約する。悪を何らかの欠損、不足ないし過剰とみるのはさして物珍しい考えでもあるまい。バタイユの『文学と悪』の原題に使われている「mal」という語は、何らかの病気や不調全般を指す物言いであり、ボードレールの『悪の花』もまた「mal」が原題にあり、そこに花開くのは何らかの病気、何らかの不調であり、沈黙や不在とも通じる否定態なのである。そうした欠損とは、すなわち、ゴッホが耳を切り落とした「供犠的身体毀損」などの、人体の意志的な欠損に結ばれる。

 短歌において、身体部位の「欠落」について、浜田到の歌を引き、その「欠落」がむしろ高次の全体性の回復という「恩寵」へと至るべき必然の道である、と説いたのが菱川善夫氏であった(「浜田到論 欠落の恩寵」『現代短歌 人と作品』八一頁)。 

 以上を踏まえて、吉田氏の述べていることを追記する。

   空間において、ある身体の欠損が露わになると、何らかのより高次の恩寵によって満たされることが期待されるような空虚さが持続する。浜田到氏の作品を論ずるとき、その大胆な破調は恐らく「時間」への抵抗という視点から読み解かれなくてはならない。定型は彼(浜田氏)にとってあくまで抵抗であり、文字通り「型」なのであり、自由詩とは別の、より根源的なかたちでの言語の空間性を(短歌において)実現させるべきものであった。ゆえにその作品世界では、時間に依拠する発話ではなしに「沈黙」こそが持続性の担い手となり、空間はより大いなる恩寵によって満たされる日のために、あちこちで欠損を露わにしながら、空虚の中に沈黙しているのである。そして、どこかでその恩寵が決して来たらぬことを既に知ってしまっていること。もしかすると、それこそが現代において最大の「悪」であるのではないか。

 最後に私見を述べたい。私なりの精一杯の解釈として、吉田氏の見解は、沈黙も欠損も、現代の短歌の作り人の好き放題に定型は扱われ、更には、恩寵を期待する程の熱量もなく、それらが、あちらこちらに放置されたままである、という意味に捉えた。そうでなければ、悪ではない。

 私は、この寄稿を拝読した時に、もっとフラットな体験をベースに読み進めていた。一つは、遠藤周作氏の「神よ、あなたはなぜ、黙っておられるのですか」という『沈黙』の一行と、もう一つは、自分の歌で「忘れられそう」という言葉を用いた際に、「『忘れられそう』と言葉にした時点で、忘れられないのではないか」という指摘を受け、(言葉に出来ない、自分の感覚や思いを言葉で表現しきれない)「欠落」を感じたことである。

 私は、どこまで破調をしても、必ず、五七五七七に戻って来られる様に、進んで参りたい。

 なぜか。

 それは、五七五七七は、やはり、美しいからである。

 

<引用・参考文献>               

 『現代短歌』現代短歌社 (2020・3月号) 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

次回の掲載日について。

ご覧頂いている皆様

 

いつも、Karikomuの頁を開いてくださり、本当に有り難うございます。

諸事情により、次回の更新は6月1日(火)になります。

何卒、御理解並びに御容赦頂ければとお願い申し上げます。

  

皆様に置かれましても、梅雨時、心弾ける日常があります様に。

 

                                                                            2021年5月27日

                                          関口智子拝

  

 

本日の一首 ー前川緑(八・完)『みどり抄』跋文

 下記に、『みどり抄』の跋文の要点を記す。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・           

 『みどり抄』は一人の歌人の十五年間の作品集としては、数が少ない。その理由は、彼女の歌をみればわかる。

 『みどり抄』を彼女の心の中であたためられいた期間は、かなり久しく、その間に、彼女は、次々に自分の古い日の歌を棄てていた。

 彼女の歌は、條件の説明を全然していない。品よく選ばれた作品は、もともと女性のこまやかな気質をもち、鋭い場所と気持から、物を歌っているから、説明的なものが出てこなかったのである。

 彼女の詩に関する何かの潔癖は、多くをきりつめて、一つの歌に懕搾したような歌である。

 この人は、異常な神経と、独自な感覚をもっていると云ってみても、そのあとすぐに、最も古い伝統を今の世に美しく伝えて、切なく新しくしている、そのきびしい心の事實を云わねばならぬだろう。

 彼女のいつも癇走っているような感受性は、決して特續的なものではない。高鳴っている間に、忽ち一種の植物生理風な喪失をする。あっとした間に、彼女の心の自然な緊張は、自然な解脱に陥っている時があるようだ。私は解脱ということは植物的變貌のように思う。そういう瞬間の危い一線で歌われた歌は、誰一人として以前に作った人のない、世界だった。

 それは、嘆きでも、叫びでも、訴えでも、くどきでもない。

 自然な緊張から忘我と忘生理の虚無に陥る瞬間の、何かきらめく心的なものがあらわれている。

          保田與重郎『窈窕記』

 前川緑『現代短歌文庫砂子屋書房 (2009) 

 <メモ・感想>

 「窈窕」とは、ヨウチョウと読み、美しくしとやかな様の意があるそうだ。至極尤もである。この跋文を拝読し、一番心を射抜いた言葉は、「自然な緊張」、である。脳が歌へすっと入っていく感覚。正に、それを一言で捉えた名言だと思う。私はこれまで、『みどり抄』を、彼女なりの努力と力量をもってして、最大限に心を込めて上梓したのだと思い込んでいた。か細い像を勝手に想像してしまっていた。とんだ奢りである。彼女も又、れっきとした歌人なのだ、それはつまり、自分の歌に全責任を持つことである。歌を自分から外界に送り出すことである。送り出し続けることである。

それでいて、ここまでの、真っ正直な、一本の草の様な、何とも静かに呼吸する歌に、私は感動する。

敢えて、言いたい。女に生まれて良かった、と。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

本日の一首 ー 『現代短歌 第85号』を読んで。

 『現代短歌』(85号)を拝読した。特集は「岡井隆の〈詩〉を読む」であった。多分に私には難解な箇所があるが、私がずっと考えて来たことをこの場を借りて、記したいと思う。

 岡井隆氏は韻律に精通ー超絶技巧(p68)、超絶技術者、する者であった。韻律を短歌に絞って語り始めるならば、そこには「定型」という見えない境目を通り過ぎなければ、入り口には立てない。偶然にも、p90-91に、「歌壇時評」ー[「うた」の起源と定型]とした題で田中槐氏が掲載している。

 田中氏は、堂園昌彦氏の『短歌(四月号)』のエッセイ、「作者と定型の融和について」についてを切り口とし、「堂園氏は、どんな新しい「時代」や「テーマ」を詠もうとも、それは定型における単なるバリエーションになってしまう危惧を持っている」と述べている事に対して、「それは万葉集の時代からえんえんと続いてきた問題でもある。」「それを支えてきた「定型」とは何なのか」、「「うた」の語源でさえ、わたしたちは何も判っていない。」そして、結論として、「いまの口語短歌の定型のゆるさを論う気はまったくない。むしろ、口語短歌は定型と格闘せざるをえない。ただ、定型を壊すことに快感をおぼえているだけでは短歌にならないだろう。だからこそ、そこをどうやって自覚的にやっていくか。」「後付けになったとしても、そういった検証が求められているのではないか。」と括っている。

 加藤治郎氏(p70)も共時的に、「詩歌にとって音数律とは何か。あなた、どう思います? そんな問いを遺して、岡井隆は世を去ったのだと思う。」と述べている。

 呼応するかのように、田中氏は、「定型におさめることだけが短歌をつくることではない。」とし、「一作者として、文体を持つということについて、もう少し自覚的であるべきだ」と、初めて「べき」を用いて掲げている。

 私は田中槐氏の意見に賛同する。そう、「自覚的」に定型に向き合い、あるいは、「自覚的」に破調しているのか。単に平たく言えば、「定型に対するリスペクト」が口語短歌に感じられないことが多い。田中氏は「後付け」でも自覚的に検証する必要があると説いている。私も同感である。

 私はこう思っている。古来よりなぜか分からぬ「五七五七七」という「器」が存在し、数多の無名な人々が詠み継いできた、だからこそ、今、「短歌」が詠える。私は今、その「器」を借りているに過ぎない、その「器」を、次の世代に引き渡す、その、一時期を担っているに過ぎないと。

    私の自覚は以上になる。とはいえ、五七五七七のみに固執する気は無い。時代毎に中継ぎが居た。私もその一人を全う出来たらと切に思う。

 <引用・参考文献>               

 『現代短歌』現代短歌社 (2021・7月号) 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。