Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首 ー 野口和夫

くしゃみした拍子にのど飴飛び出して凍るホームに終電を待つ

  野口和夫『現代短歌・1月号・第82号』(2021)p79

 第八回現代短歌社賞、佳作『不採用通知』、より一首。久しぶりに、良い意味でフラットな歌に出会えた。その他の歌も、大きく道理から逸れることのない快作だと感じた。掲出歌も、「おしゃべり」になりそうな出来事を、しっかり整えている。笑いを誘いながらも、作者の心中を察して同情が湧いた。歌とはこういうものだと、感覚的に思い起こされた。気張らなくて良い。不格好で良い。知っている言葉で良い。地味だろうが華があろうが、正直に詠え。そこにしか、己の歌は存在し得ないのだ。頭で考えるな、腹の底から、歌を生め、そうでなければ、その歌に己の魂は宿らないのだ。

本日の一首 ー 石田比呂志 『石田比呂志全歌集』

不可思議のひとつ起こらぬこの道を勤めに出づるあしたあしたを

 石田比呂志石田比呂志全歌集』砂子屋書房(2001)p78

 ある時、先達に「歌の安定性」について尋ねた。「歌の安定性とは?」と問い返され、「どのような時でも、歌として成立する水準の作歌力を持ち得ること」と答えた。すかさず、「歌で愚痴を詠わない事」と仰せられ、その簡潔で的確な言葉はそのまますとんと腹に落ちた。その通りである。誰だって毎日、良いことも嫌なこともある。嫌な事の掃き溜め口が短歌になってしまいそうになる。だけれども、問題は「嫌な事の掃き溜め口が短歌になって」しまうことではない。「嫌な事」を如何に「歌」として微かな美を放つように表現出来るかにあると私は思う。掲出歌は、朝の通勤の道。何か、鬱屈したやるせない気持ちが伝わって来る。しかし、この歌からは、その退屈した虚無感が続く毎朝の通勤を、「不可思議のひとつ起こらぬ」と言い換えることで、見事な、目が覚めるような、「視点」により、読者に豊かな何かをもたらしている。毎朝の同じ経路の通勤なんて疲れるばかりで歌にもならない、と私はかつて思っていた。その程度の水準で物事を見ていた。どの角度で、今ある現実を、今ある喜怒哀楽を、歌にするか。まだまだ先は長い。ならば、見える景色が美しくなるように、そう見えるように、五七五七七の力を借り、日常を見つめる鍛錬を始めよう。

本日の一首 ー 奥田亡羊 『亡羊 boyo』

この国の平和におれは旗ふって横断歩道を渡っていたが

一行を拾いに落ちてゆく闇の深さばかりが俺であるのか 

スプーンを覗き込んでは春の日をぼくは逆さに老いてゆくのか 

やさしかりし人のこころを計りつつ段(きだ)くだり来て地下鉄を待つ

われを待つ妻のひとりの食卓にしぼんでいった花の数々 

食卓の花には影のないように用心深くわれら暮らしき

 奥田亡羊『亡羊 boyo』短歌研究社(2007)

 歩み寄れないない、現代短歌・口語短歌への不可解さに、いつもの如くぶうぶう言っていたら、八雁会員のA部さんが、この歌集をさらりと黙してお貸しくださった。開いてびっくり、作者の力量、短歌の力、がありありと満ちあふれた一首一首。さらに、これらの歌は、作者が32歳から39歳までに作歌した歌であると、あとがきに記されていた。今、若手歌人は五七五七七の定型を壊すことがせめてもの「反抗」だという気風があるそうだ。でも、何時の時代にも、若者は変わらず、「大人ってバカだよね」「(大切なものを忘れてゆく)大人になんかなりたくないよね」なんて思うものである。私は遅ればせながら、今、大人になりたいと思っている。大人になって五七五七七の「悲しみの器」を尊び、破壊するのではなく、破壊したい気持ち、を言葉を駆使して、その皿に盛りたい。破調と破壊は、似て非なるものである。破壊したら気持ちを盛る皿は当然割れ気持ちの表現は無し得ない。皿は大事にしなければならない。私は表現したいのだから。

 

 

 

 

 

 

本日の一首 ー 吉田隼人

 

竜胆の花のやいばを手折るとき喪失の音(ね)を聴かむ五指かな

 吉田隼人『角川短歌』株式会社KADOKAWA(2015・4月号)p64 

 

逐語訳:リンドウの花の刃を手で折る時、刃が失われるその音を聴いているのだろうか五本の指

 竜胆の花は、晴れた日にしか咲かないそうである。また、茎や葉に棘があり、薬草にもなるそうである。名前の由来も、根が、「熊の胆(い)」よりも苦いことから「竜の胆(最上級に苦い)」の意味で、この名前になったとされ、何となく、暗い意味を含んだイメージが浮かぶ。どこまで作者がこの素材に含意を託したのかは分からないが、何らかのメッセージ性を発していると、私は捉えた。棘を手で折り棘の生を殺める時、その命が失われていく、棘の折れる音、を聴いているのだろうかこの(棘を折った)五本の指は。       

 私の解釈では、この作者自身の身体の耳にはその音が聴こえない。棘は小さすぎて、身体の耳には折れる瞬間の音は聴こえない、だが、この棘を折った感覚のある指、この指には聴こえているだろう、小さな棘が死した時の音を。自分が生命を殺めた瞬間の音を。とした。

 またしても、口語短歌へほんの少し不慣れの不が取り除かれていく思いをし、有り難い限りである。

 

本日の一首 ー 飯田彩乃『リヴァーサイド』より

 

まばたきと同じ昏さに散つてゆく花とは時間(とき)の単位のひとつ

       飯田彩乃 『リヴァーサイド』本阿弥書店 (2018)p106

 

 「八雁」のT田氏の紹介で手にした若手歌人の歌集である。常々、今現在、「口語短歌」「若手歌人」と呼ばれている歌人の歌集に、あまり食指の動かないままではあるが、この頃は、敢えて、逆流を上る思いで、何冊か読んでいる。ただ、この歌集に限らず、若手の方々の語彙力には驚いていることを記しておきたい。例えば、この「昏さ」など。おそらく「くらさ」と読むのだが、意味は「暗い・昏い・冥い」と同義である。

逐語訳(瞼の)瞬きと同じほどはっきりせずに(気が付くと自然に)散ってゆく花とは時間の経過を示す単位の一つのようだ。

 この発見、感性が良いと思えた。加えて、一首に美しく成す、作者の力。発想が豊かでも、それを一首に生かせるかどうかはまた、異なった力を必要とする。「時間」に「とき」とルビをふりながら、「昏さ」はそのままに堂々と扱う、この、言葉への奥深い神経。こんな風に思える様にこれからも歌を読んでいきたい。

 

本日の散文詩 ― 斉藤政夫 散文詩『はね橋』への感想

斉藤政夫氏の散文詩『はね橋』への感想

 斉藤氏の文章は、美しい。御本人は「散文詩」と称しているが、これは「小説」に値する「流れ」がある。以前、あるいは、昔、吉本ばなな氏がインタビューで、「小説家に必要なものは『正確さ』」だと述べられていた意味が、ようやく、分かった気がしている。斉藤氏は理系の職業に就かれていた。数字の世界で戦って時を経て、家族を養われて来た。そして、そこで磨かれた「正確さ」と本来の「文学による自己探求精神」が相まって、この作品が存在する。ここで思う「正確さ」とは「具体性」とは無論、異なる。「表現の細やかさ」である。物を書く時に、どこまで感覚を鈍らさずに書くか。如何に、感覚を鋭利にして、表出していくか。そこには、「読者へ届ける」気持ちなど入る隙間は無い。自分と自分の文章との対話と呼応だけである。そこまで深く集中し、この『はね橋』は書かれたと、私は確信している。斉藤氏は身勝手でありながら自分勝手な人物では無かった。人に愛想を振る舞う姿など、目にしたことが無い。そして、斉藤氏は自身に対しても愛想を振る舞うことは無かった。正確か不正確かで判断して来た、その積年が、斉藤氏の書く「散文詩」に、文字となって花開いている。この文章は(「小説」と敢えて呼びたいが)、その虚構のリアリティにおいて、「正確さのある描写」の連続故に、作者の強い思いが自己完結されながらも、読者にしっかりと伝わる、純度の高い結晶の様な、真摯さを覚えた。

本日の散文詩-斉藤政夫 

 はね橋               2020-12-02 | 詩 

  いつもより早く目が覚めた。体中の毛が全部、白く変わっていた。もう、その時なのだ。聞いてはいたが、やはり……、そうか。仕方ない、行かねばなるまい。これで、一切の苦が、体の痛み・こわばり、心の奥の不安・焦燥・沈鬱がことごとく消える。この先、安らぎが待っているのだ。だが、煩悩も消えるのは、ちと、さびしい。いや、やっぱり、わかんねぇな、生きてきたということの意味が。

 きのうの夜、女房が最後のお膳を用意した。俺のお椀には白米のごはんが盛られていた。俺は「白米は、孫に回してやれ」と言いながらお膳を前へ押しやった。もう、食べたいものは何も無い。水が欲しい。うまい水だ。
 俺の部屋にみんなを呼んだ。布団を隅によせ、みんなと向かいあった。みんな、正座して押し黙っている。息子が「明日、行くから」と静かに言った。俺は「そうだな」と応え、孫の顔を見た。息子の長男が「いっちゃいやだ」と俺にしがみついた。下の妹は手の甲で涙を抑え、すすり泣いた。女房は下を向い向いていた。膝に置いた両の手はぎゅっと結ばれていた。俺がコロを連れて行きたいと言ったら、「それは出来ない」と女房が言った。
 外は雨の音がしていた。

 今朝は晴れていた。家の前の細い抜け道はぬかるんで、粘土のぬめりが足裏に直接、伝わってくる。水たまりを除けて通りにでた。通りは幾分、舗装はされているが、でこぼことして歩きにくい。通りを奥の森に向かって歩いた。息子は黙って、ついてくる。通りの片側には、先ず、バス通りとの角に自転車屋があり、いつものように売り出し中の自転車を店先に並べている。午前の光が車輪のスポークスにあたっている。そこから軒の低い家が続くと小さな食堂がある。店の表には「めし」と書いたのぼりが立っている。もう、中から、カレーの匂いが漏れてくる。少し行くと小さなスーパーに出会う。いつものように、ばあさんが二人、何やら言いながら露台を出して、野菜を並べている。笑っているようだが、何をしゃべっているのか。遠くに電車の音がかすかに聞こえる。舗道の石畳は午後の光を受け、暑さに萎えている。
 反対側には竹藪を包むようにしてトタンの塀が長く、続いている。その奥には灌木がだらだらと地を這い、小高い丘に向かって伸びている。丘を越え、森の奥には「あそこが」あるのだ。
 今日、見たことは、全部、覚えておこう。

 更に歩くと標識があり、「丘への道」を指していた。そこを曲がると道は急に細くなり、木の根っこが道を這い、大きな石が転がっている。両側から熊笹がかぶさって、あたりはだんだんと暗くなる。
 丘のてっぺんに出た。日が陰るまで待った。向こうで寒くないように陽を一杯浴びた。
太陽が真っ赤になり、休んでから、丘を降った。道の先は森のなかに消えている。森を抜けると道は登りとなり、こう配が急になった。そこに案内板にはこうあった。「この先には崖がある。跳ね橋がかかっている。着いたら橋を渡れ」と、書いてあった。さらに「この先は一旦、進めば後には返せない」ともあった。「じゃあ、ここまでだ」と後ろに立っている息子に向かい「帰ってもいい」と伝えた。
 先に進むにつれ、霧が立ち込めてきた。もう、なにも見えない。「ないも見えねば大和と思え」、ふと、この詩句が浮かんだ。前川佐美雄の歌だったか。
そうだ、みんなにお礼を言うのを忘れていた。息子を追おうとして振り返った。だが、いま来た道は消えていた。

 橋が見えた。ゆっくり、橋を先に向かって進んだ。途中まで来ると、突然、橋が跳ねた。体が宙に浮いた。
 ああ、これが、あの、「はね橋」なのだ。
 このまま、ゆっくりと落れば、「涅槃の地」へ行けるのですね。

 <引用文献> 

 斉藤政夫ブログ『短歌が好き』

    https://blog.goo.ne.jp/saitohmasao