Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

2022年8月8日 お詫びとご報告

この頁を開いてくださっている皆様

 7月5日に再スタートを図り、一ヵ月以上、更新せずにおりました事、本当に情けなく、又、恥ずかしく、受け止めております。

 本当に、申し訳ございません。

 眼瞼痙攣並びに眼球使用困難症候群との診断が下り、なるべく、パソコン作業を控えるようにと、医師から告げられております。

 今後のことは、今現在、何も確約出来ない状況にありますが、自分自身としては、絶やしたくはない学びの場であることに変わりはありません。

 本当に、有り難うございます。

  「良い歌」にたくさん出会い、分かち合って行ければと思っております。

               掲示板管理人 関口智子拝

本日の一首 ー 関口智子

 断りの返事は程良く軽々と絵文字にペコリとお辞儀をさせて    関口智子          

 拙歌である。私は長らく歌会で「零点(0点)」と「一点」を行ったり来たりしていた。色々な試みの実験場として歌会に臨んでいたと思う。と言えば聞こえは良いが、私は私以外の誰かになったつもりでー取り分け口語短歌を理解する、あるいは過剰に意識してー作った歌を出詠していた。でも、ある時、歌会で「調子が悪くてもこれぐらいは(作ることができる実力)」と他人様の歌が評価され選に入ったことが、ずっと心に在り続けた。私自身は上記の拙歌を好むかと言えば、好まない。久しぶりの「四点」であったが、選に取ってくださった方々に申し訳ない気持ちさえした。ただ一つ、学んだことは、もう、どんな歌であろうと「『自分の歌』の水準を上げていく」以外の試みをしている時間的猶予は無いということである。私は体質が古い。古いので現存する歌人の歌と向き合うより、故人の歌と向き合う時に心が安らぎ、自然と謙虚な気持ちで、静かな時間をどこまでも過ごしたくなる。そして、それが自分が生きていく上で、最も必要で、最も愉しく、最も幸せな、唯一、である。  

<引用・参考文献>

 八雁横浜短歌会 六月の歌会より

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*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

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本日の一首 ー 阿木津英『黄鳥』(2014)砂子屋書房 p131

 仰ぎつつ歩みをとどむ夕ぞらはいまだも青きひかりながらふ    阿木津英          

 「芸術というものは、何千人もの気長な仕事ぶりと思考と感情から生まれてくるものである。/ 余暇は芸術のために絶対必要である」。この文章を目にした時に、「?」と思った箇所があった。それは、「余暇」という言葉である。加えて、「余暇は芸術のために絶対必要」という意味がまだ持って理解に落とし込めずにいる。「余暇」とは広辞苑によると「自分の自由に使える、あまった時間」、「ひま」、「いとま」とある。余暇の必要というのは、上記の意味から考えるに「自由に使えない時間がまず先にあって、自分が自由に使える時間がある」というのが当たらずとも遠からずであろう。ただ、「あまった時間」というのは今の日本にいてなかなか感じられない、ともすれば贅沢ささえ匂ってくる言葉である。けれども、そこを擦り合わせていくと、「時間はつくるもの」、「時間を有効に」、「有意義な時間」など、一瞬、陳腐で合理主義的に思われる発想が違って見えて来る。「芸術というのは何千人もの気長な仕事ぶり」によって今日まで脈々と生き存えてきたものであり、そこには、何千人もの人間が生計を立てながらも「余暇」をもって、その余暇を芸術に捧げてきた、何千人もの人の息吹が込められたものなのだと、私は受け止めている。全くの見当違いであるかも知れないが、「余暇」とは「精神の解放」であるとするならば、それは「芸術に絶対必要」である。 

<引用・参考文献>

 阿木津英『黄鳥』(2014)砂子屋書房 p131

 ラフカディオ・ハーン小泉八雲東大講義録 日本文学の未来のために』角川ソフィア文庫

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本日の一首 ー 『八雁』十周年

一棟の壁を照らせりひがしよりわたり来りてあかきひかりは     阿木津英          

 短歌結社『八雁』は今年で十年を迎える。運よく2011年の末月に滑り込んだ私は、ただ単に、月一度の「歌会」が楽しくてここまで来てしまった。阿木津氏からもっと歌数を増やすように言われてただ単にたくさん作るも、「歌はこんな風にさかさかと作るものでは無い」と半年以上言われ続けた時期もある。あまりに歌が作れなくて「歌が作れない『歌』」を出詠し(歌会に参加するには一首出詠しなければならない為)歌会にだけは行かれるようにするしかなかった時期もあった。ここ数ヶ月、ようやく「歌」というものが見えてきた気がする。ある時、京都に在住の八雁会員のS氏が横浜歌会に来てくださった時のこと、歌会後の飲みの席で「今日、僕は早速一首作りましたよ」と仰った。その一言に、私は以前の私とは違う響きを覚えた。日常においてそういう水準で歌を作れるようになれば、歌数も自ずと増える。そして、自分の歌なのだから、一首一首を丁寧に作る心が大事なのだ。「自分が歌を作る」「自分は歌を作る」だけではない「歌が自分を導いてくれる」「歌が自分を救ってくれる」。分かり始めた今が、新たな出発点だと思っている。

<引用・参考文献>

うた新聞 令和四年四月十日 第121号 「春」

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Karikomuをご高覧頂いている皆様へ

 

この頁を開いてくださっている大切な方々へ、心より感謝申し上げます。本当に、有り難うございます。不本意ながらの告知ではありますが、体調と環境を整えるべく、6月1日まで、長期休載をすることと致しました。試し試し、騙し騙し、決断を先延ばしにしてしまったことを深く、お詫び申し上げます。一刻も早く、ここに戻って来ることを楽しみに、精進して参ります。

 

2022年3月20日 Karikomu かりこむ 掲示板管理人 関口智子拝

本日の一首 ー 永田和宏

あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年

    『メビウスの地平』(2020)現代短歌社

本所には置行堀(おいてけぼり)のあるといふ置いてけとなぜ叫ばなかった

岬に立つのがもう似合はない年齢になつたのだらう海も見なくて

    『置行堀』(2021) 現代短歌社

前衛短歌の御三家は、寺山修司塚本邦雄岡井隆、であり、その影響を最も受けた世代に、永田和宏氏が存在していると、私は思っている。冊子『現代短歌』(2022年3月号 No.89)は、『永田和宏の現在』とした特集であった。様々な歌を詠われ、土岐友浩氏との対談で、永田氏は「(短歌の)方法」という事を土岐氏と語っている。だが、この一冊を通して、何か歯切れの悪い包丁で色々な角度から、客観的に永田氏の歌が評されいる様に思えた。理由に、永田和宏氏の亡き妻、歌人河野裕子氏の存在が要であるように感じられた。永田氏自身も河野氏との出会いによって短歌を生涯続ける事となったと述べている。自身の乳癌を告白した河野氏と、それを止めようとした永田氏のやり取り。また、永田氏自身は「(自分が)理系であること」を土岐氏との対談で主張している。これは、私個人の率直な歌についての感想であるが、もし、前衛短歌や口語短歌や河野裕子氏との出会いが無かったら、歌のアイデンティティはどこにあるのだろう。前衛短歌や口語短歌は、それこそ、「方法」に囲まれた、「方法」の檻に守られた、「恥じらい」を晒しているに過ぎない。同じスクリーンでも、ドラマなのかアニメなのかで、流れた血の痛みの伝わり方は異なる。アニメならば、推しメンだったキャラクターでも、ある日、飽きて、呆れたら、リセットしても、誰も傷付かない。これが、人間の演じるドラマだと、相手も生身の人間であるから、飽きられた方はファンを失うことになる、という精神的な痛みの想像に至り、無碍にしづらい。これと同じことが、2022年の短歌ブームに起こっていることではなかろうか。五七五七七に対する甘えと無責任性。さらっと作って飽きたら止める、その様なことが短歌だから許されてしまう現状。血でも汗でも涙でも体液でも、何かしら迸る生身の人間に湧く一滴の感情を感じたい。

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本日の一首 ー 阿木津英「釋迢空」について④(前半・後半 ー 合併号)

下記、釋迢空の略年を通して、時代背景を記す。
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1887年(明治20)大阪浪速区の生薬屋に生まれる。
 *M30 正岡子規の写生
1900年(明治33)十四歳。父に買ってもらった『言海』『万葉集略解』を精読、筆写。
 *『言海』・・・国語辞典。
1901年(明治34)十五歳。三兄の進(すすむ)氏がとっていた『明星』、『心の花』を   
読む。進氏が「文庫」に、迢空の歌を(無断で)投稿し、服部躬治の選に入る。
 *この年に與謝野晶子の『みだれ髪』が出版され、スキャンダル的に全国的に「明星」が流布する。
 *短歌の投稿雑誌が流行り、北原白秋なども投稿していた。
  1902年(明治35)父急逝。図書室の『新古今集』を読み耽り回覧雑誌に短歌を載せる。
 *この時代は、まだ、「''和歌''の世代」。
 *和歌的教養が浸透している時代であり、まだ、旧派(宮内庁歌会)が強かった。
1905年(明治38)中学卒業。九月に國學院大學予科に入学。
 <自然主義運動-明治38年明治40年
日露戦争後、「自然主義運動」があらゆるジャンルに影響を及ぼし、文学における地殻変動が起きている状態であった。(ex,田山花袋・その他の論壇、批評会)
小説の世界と短歌の世界とにおける自然主義は異なるものではあるが、訳の分からない西洋からの影響が日本語の世界に影響をもたらして来た。
 *尾上柴舟と共に叙景詩運動を興し、与謝野鉄幹を批判するようになる。
 (尾上柴舟も与謝野鉄幹も、もともとは、落合直文の門下生であった)
 *新派和歌vs旧派和歌
 *宮内省歌人
自然主義」・・・ 理想化を行わず、醜悪なものを避けず、現実をありのままに描写しようとする立場。19世紀後半、自然科学の影響のもとにフランスを中心に興ったもので、人間を社会環境や生理学的根拠に条件づけられるものとしてとらえたゾラなどが代表的。日本では明治30年代にもたらされ、島崎藤村田山花袋徳田秋声正宗白鳥らが代表。→リアリズム文学
1907年(明治40)二十一歳。国文科に進学。服部躬治に入門(束脩)するも、折衷的な歌柄に物足りなさを感じ、一度の批評を受けた後、止める。
1908年(明治41)『アララギ』創刊。~明治42年 森鴎外の観潮楼歌会。
 *『アララギ』・・・伊藤佐千夫が中心、長塚節、古泉千樫、土屋文明が主要。
1909年(明治42)子規庵の東京根岸短歌会に出て、伊藤佐千夫、古泉千樫、土屋文明などを知る。
 *子規庵は狭い作りであり、七、八名が入る程度の広さである。
 *〈自然主義〉興隆の時代-詩歌文学の世界と現実・生活の世界
   鉄幹 vs 白秋・夕暮・啄木ら-『明星』・『すばる』
   佐千夫 vs 赤彦・茂吉ら-『アララギ
 *鉄幹の『明星』が下火になっていき、『すばる』(1913年まで)を出版。
1910年(明治43)國學院大學国文科卒業。石川啄木の『一握の砂』刊行、精読。
 *釋迢空自身、啄木の『一握の砂』を精読し、書き入れと模倣をする。啄木の『一握の砂』に最も考えさせられた時代
 *関西同人根岸短歌会に出席・・・万葉原理主義で古臭い。
1911年(明治44)十月、府立の中学校の嘱託教員となる。
1912年(明治45 / 大正1)教え子等を伴い志摩・熊野を船で巡る。『安乗帖』を作る。
 *『安乗帖』・・・これは正式な歌集前にまとめられた冊子。
1913年(大正2)柳田国男が雑誌『郷土研究』創刊、十二月号に投稿掲載。自筆歌集『ひとりして』を編む。
 *『ひとりして』は『安乗帖』が基となっている。
 *根岸短歌会には、顔を出す程度で、独りで独学により探究していた。
 *根岸短歌会に出入りすることで、『万葉集』への関心を深めていった。
1914年(大正3)辞職。四月に上京。後を追ってきた生徒等と同居。
1915年(大正4)普門院・佐千夫三周忌歌会に出席。島木赤彦、土岐善麿を知る。
1917年(大正6)三十一歳。アララギ主要同人に推挙される。
1921年(大正10)三十五歳。アララギを離れる。
1924年(大正13)古泉千樫のすすめで『日光』(vs『アララギ』の同人誌)に加わる。
1925年(大正14)三十九歳。歌集『海やまのあひだ』刊行。
1926年(大正15 / 昭和1)三月・島木赤彦没。七月・『歌の円寂するとき』執筆。
1927年(昭和2年)八月・土佐から室戸岬にいたる途中、千樫の死を知る。年末、『日光』廃刊。
1928年(昭和3年)十月・國學院の学生だった、藤井春洋と同居。
1929年(昭和4年)のちに主著となる『古代研究』民俗学篇・国文学篇出版。
1930年(昭和5年)一月・歌集『春のことぶれ』出版。
  *このころが、釋迢空の歌が一番のっていた時期(意欲的)
1931年(昭和6年)一月・藤井春洋、年末まで入営(・・・満州事変)。
1937年(昭和12年)この頃から初めて頭髪を伸ばす。九月・改造社「新万葉集」の選を始める。北原白秋斎藤茂吉らと、歌を集めて選をし始める。
1939年 一月・小説『死者の書』(・・・戦争協力)を発表。
1937年~1939年・日中戦争・・・泥沼にはまって、どうして自分達は、意味の分からない戦争に巻き込まれているのか、国全体が鬱屈した時代
1941年(昭和16年)八月・中華民国に講演旅行。十二月・大東亜戦争勃発(真珠湾攻撃)。藤井春洋応召。
1942年 四月・春洋応召解除。六月・日本文学報国会国文学理事・短歌部会会員。九月・歌集『天地に宣る』出版(・・・戦争協力・国家の色のついた豪華な装丁)。十二月・大日本言論報国会会員。
1943年(昭和18年)九月・藤井春洋再び応召。金沢の聯隊に入隊。翌年六月まで加藤守雄同居。
1944年 六月・会津から千葉県柏に部隊異動、二、三度帰宅。七月・春洋硫黄島に着任。春洋を養子とする。
1945年(昭和20年)二月・米軍硫黄島攻撃開始。三月末・大本営から硫黄島全員玉砕発表。
 *敗戦となり、自分はどういう立ち位置で物を書くか方向を改め、女流歌人与謝野晶子や山中智恵子)への後援、女人短歌会を応援し始める。つまりは、アララギを支援。明治23年には明治神宮で講演を行う。
1948年 一月・『水の上』(昭和5年5月~10年7月までの歌)出版。三月・歌集『遠やまひこ』(昭和10年11月~15年7月までの歌)出版。五月・『古代感愛集』により芸術院賞受賞。
1952年(昭和27年)九月・軽微な脳溢血。
1953年(昭和28年)67歳。八月・「いまははた老いかがまりて誰よりもかれよりも低きしはぶきする」。九月三日、胃癌にて永眠。
1955年 歌集『倭をぐな』出版。
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・明治三十年~正岡子規の写生を重要視する流れが、自然主義文学の前駆であった。
落合直文の弟子は、ロマンティックを詠う与謝野鉄幹と、それに反発し、叙景詩運動をした服部躬治、尾上柴舟がいた。
・釋迢空は、①自然主義石川啄木 に影響を受けている。

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<参考文献>
阿木津英『アララギの釋迢空』(2021) 砂子屋書房

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*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

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