第七十二回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(29)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑮
第七十二回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(29)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑮
2018年12月19日の記事をそのまま下記に示す。それを元に、現時点での私が大事だと思う事を加筆修正しながら、お伝えするように試みる。
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前川佐美雄にとっての第三歌集『白鳳』で、佐美雄は「かへりみると昭和四、五年の二年間はだいたい作歌を中止している」。また、「昭和六年になつて『短歌作品』(注2) といふ小歌誌をはじめたのでまたぼちぼち作り出した」とあるが、実際には、『短歌作品』は休刊し続けていた。昭和9年6月に『日本歌人』を創刊するまで、作歌活動は途切れがちに続いていた状態であった。
昭和4年(1929)
昭和5年(1930) 第1歌集「植物祭」(1930)
昭和6年(1931 「短歌作品」を創刊・・・休刊
昭和7年(1932)
昭和9年 (1934) 「日本歌人」を創刊
昭和15年(1940) 第2歌集「大和」甲鳥書林(1940)
昭和16年(1941) 第3歌集「白鳳」ぐろりあ・そさえて(1941)
順序が逆になる、『白鳳』は、『植物際』から『大和』への転換期の歌を纏めたものである。 この様な転換期、すなわち、基盤模索時代をなぜ、佐美雄が必要としたのか。
この時期に、佐美雄は「シュールレアリスム」、「プロレタリア短歌」から離れた立場を掲げていた為、シュールレアリスムを取り入れた『植物際』の成果が大きかった故に、次の足の踏み出し方が難しいものとなったと言える。そして、佐美雄は、自分自身の個人的な文学課題の一つの応えとして、母体であった「心の花」(注1)から自ら離れて、敢えて、自分の基盤となる短歌集団の形成に模索することにした。それが『白鳳』の背景であり、佐美雄自身も「昭和九年ごろまでは十分作歌に打ち込むだけの余裕をえてゐない」と述べている。
*(注1) 「心の花」 : 短歌雑誌。佐佐木信綱が明治31年(1898)2月に創刊。明治37年(1904)からは短歌結社「竹柏会」の機関誌となり、今日に至る。〈広く深くおのがじしに〉をモットーとする。前川佐美雄自身は1922年に東洋大学に入学、以来、在学中より佐々木信綱に師事していた。
*(注2) 『短歌作品』昭和6年1月創刊について:石川信雄、木俣修、斎藤史らが創刊同人として集まったもので、木俣氏は「定型を守持する芸術派がはじめて集合した雑誌」と述べている。
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第七十一回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(28)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ⑭
ー基盤模索時代(1)ーp131
『白鳳』の後記では、佐美雄は「かへりみると昭和四、五年の二年間はだいたい作歌を中止している」「昭和六年になつて「短歌作品」といふ小歌誌をはじめたのでまたぼちぼち作り出した」とある。
雑誌「短歌作品」は休刊し続けており、昭和九年六月、雑誌「日本歌人」を始めるまでは、作歌活動はとぎれがちに続いていた。読みようによっては『植物祭』から『大和』への移行期の作品を集めたのが『白鳳』であるともとれる。
この時期には、佐美雄はシュールレアリスムやプロレタリア短歌から離れた立場を掲げていただけに、シュールレアリスムを取り入れた『植物祭』(第一歌集)は、一回性の斬新さでなければならず、『植物祭』の成果の大きさ故に次の一歩はよりむずかしいものになったと考えられる。
佐美雄は、そうした個人的文学課題に密接に関係して、「心の花」という母体を離れて、自分の基盤となる短歌集団の形成について模索していた。
それが『白鳳』の背景であり、佐美雄自身も「昭和九年ごろまでは十分作歌に打ち込むだけの余裕をえてゐない」と述べている。
・昭和6年1月 「短歌作品」を創刊
・昭和8年春 「カメレオン」の出発
(*「短歌作品」は佐美雄を中心に石川信雄、木俣修、斎藤史らが創刊同人として集まったもので、木俣自身『定型を守持する芸術派がはじめて集合した雑誌』とのべている)
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【参考・引用文献】
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)
20130221-135308.pdf (city.katsuragi.nara.jp)
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第1歌集「植物祭」(1930)のち靖文社