Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首 ー 永田和宏

あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年

    『メビウスの地平』(2020)現代短歌社

本所には置行堀(おいてけぼり)のあるといふ置いてけとなぜ叫ばなかった

岬に立つのがもう似合はない年齢になつたのだらう海も見なくて

    『置行堀』(2021) 現代短歌社

前衛短歌の御三家は、寺山修司塚本邦雄岡井隆、であり、その影響を最も受けた世代に、永田和宏氏が存在していると、私は思っている。冊子『現代短歌』(2022年3月号 No.89)は、『永田和宏の現在』とした特集であった。様々な歌を詠われ、土岐友浩氏との対談で、永田氏は「(短歌の)方法」という事を土岐氏と語っている。だが、この一冊を通して、何か歯切れの悪い包丁で色々な角度から、客観的に永田氏の歌が評されいる様に思えた。理由に、永田和宏氏の亡き妻、歌人河野裕子氏の存在が要であるように感じられた。永田氏自身も河野氏との出会いによって短歌を生涯続ける事となったと述べている。自身の乳癌を告白した河野氏と、それを止めようとした永田氏のやり取り。また、永田氏自身は「(自分が)理系であること」を土岐氏との対談で主張している。これは、私個人の率直な歌についての感想であるが、もし、前衛短歌や口語短歌や河野裕子氏との出会いが無かったら、歌のアイデンティティはどこにあるのだろう。前衛短歌や口語短歌は、それこそ、「方法」に囲まれた、「方法」の檻に守られた、「恥じらい」を晒しているに過ぎない。同じスクリーンでも、ドラマなのかアニメなのかで、流れた血の痛みの伝わり方は異なる。アニメならば、推しメンだったキャラクターでも、ある日、飽きて、呆れたら、リセットしても、誰も傷付かない。これが、人間の演じるドラマだと、相手も生身の人間であるから、飽きられた方はファンを失うことになる、という精神的な痛みの想像に至り、無碍にしづらい。これと同じことが、2022年の短歌ブームに起こっていることではなかろうか。五七五七七に対する甘えと無責任性。さらっと作って飽きたら止める、その様なことが短歌だから許されてしまう現状。血でも汗でも涙でも体液でも、何かしら迸る生身の人間に湧く一滴の感情を感じたい。

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*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

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