Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首 ー 小田鮎子

玄関をひとたび出れば見しことのなき顔をして夫が歩く

襟立てて銀座の街へ消えてゆく夫追いかけて見たき日もある

途切れたる会話の間(あい)を縫うように公園脇を電車が走る

子を寝かせブラックコーヒー飲みながら取り戻したきことの幾つか

母でなくとも妻でなくとも昼下がり選ぶ秋刀魚の銀(しろがね)の色

持ち上げて持ち上げられて進みたる話いつしか雲の上ゆく

ブランドのもので覆って悟られぬようにしている心の値段

  小田鮎子『海、または迷路』 現代短歌社 (2019)  

 

<メモ・感想>

 掲出歌より、作者は「妻」であり「母」であることは確かだ。一冊の歌集の中でも「子」や「子育て」のことを詠っている歌が中盤を占めている。また、結社の内部、外部に問わず、そこに歌評が集まっている様に感じられた。だが、私のこの歌集が良い理由は、妻、母、子、子育て、のどこに置いても、一人の人間として、「自分の邪な視点」を隠し切れない、そういった複雑な「揺れ」にある。多くの歌評に取りあげられている歌は、著者の得意とする短歌形態ー短歌を好きな人が好む歌ーにある。でも、本当は違う、と心底で私は驚き、少々の怒りをも覚えた。この歌集の醍醐味は、一首、二首目にある夫への愛情を晒し、三首目で鋭い感覚で一首を築き、四、五首目でふと「我」だけになる一時を素直に認め、六、七首めで本心をー人間のずるいところをー率直に差し出す。歌数とは関係ない、感情の多様性にある。どこかいつも「歌」のことを忘れられない「我」がいる。そして、それを著者は知っており、知っているだけに歌にすることへの「痛み」すら感じているだろう。「私は良い母親です」、「私は悪い母親です」、そう決められたらどんなにか楽か知れない。でも、著者は違う。揺れている、揺れ続けてゆく、海、または迷路か、と。